心辛く「どしゃ降り」の方に。中国で聞いた言葉「気高い人は、雨の降る日にやって来る」
いきなり一刀両断であるが、私は雨が好きではない。
農家の方、傘メーカーの方、傘作り職人さん、傘屋さん、カッパ屋さん、、、、その他、色々とお会いしたことのない各位に申し訳ない気分である。
ただ行動は制約されるし、傘が有っても服は多少濡れるし、ましてや傘がなければもっと濡れるし、、、何とも好きになれないのである。
私には現時点で、雨の日を「楽しく過ごす」秘訣だったり、「雨の日しかできない遊び」などのアイデアは特にない。
しかしながら、私には「雨の日にしかない遊び心」というのがある。。。
若い頃、中国で仕事をしていたときに、日本の本社からきた責任者や現地の日本人工場長らに付き添って、取引先の中国企業に打ち合わせに行ったことがある。
その日は、あいにく雨が降っていた。
相手先の中国人代表者らは、我々を歓迎してくれて、打ち合わせの冒頭で、その代表者はこんなことを言ったのである。
「私の故郷では、気高い人は雨の降る日にやって来るといいます。今日は、皆さんがお越しになるのを心待ちにしておりました。」
う~ん、さすが4000年だか5000年だかの歴史の国である。
言うことが何だか粋であると感じたものである。
その打ち合わせでは、通訳を介して対話が進められたのであるが、「気高い」と訳された部分は、中国語では確か「高貴(ガオグイ)」みたいに言っていたと思う。
ネットで検索してみたが、なかなか似たような言葉がヒットしない。
まあ中国広しなので、結構ローカルな言い伝えなのかもしれない。
「いやいや、その人つくったんじゃない?」みたいな読みもできるが、仮にその中国人代表者さんが「あっ!雨降ってきた!わざわざ来てくれたんだからちょっと労っておくべ!」みたいにアドリブで言ってたとしたら、それも逆にすごい。
それこそ実に、4000年だか5000年だかの歴史が生んだホスピタリティーだと感心する。
その後の打ち合わせは大きな問題なく終わったが、上に述べた冒頭の枕詞が何だか面白い言葉として印象に残った。
そして私は「そう言えば、、、」と、それよりも若かった頃、海外に来る前のことを思い出したのである。
日本の大学に通っていた頃のことだったと思うが、その頃、私は将来に何となく不安を抱え、家族や友人たちとの関係も少しギクシャクしていた。
年齢は若かったが、心が少し疲れた状態にあった。
気分が鬱々とした中、確か新しいアルバイトの面接だかに急いでいたのだが、私の憂鬱な気分に追い打ちをかけるように雨が降り始めた。
私は生まれながらにして「方向音痴」「雨男」「天気予報見忘れ病」という三重苦を抱えているが、周りはみな傘を持っている人ばかりで、傘なき子は私ぐらいのものであった。
みな、きちんと天気予報を確認した上、家を出た人たちばかりなのだろう。
残念なことに、近くには傘を売っていそうなコンビニのようなお店もなかった。
その頃は、今のように「Google マップ」パイセン!のような実に頼りがいのある相棒もいなかったので、私は迷いながらも「もう少しで着く筈だから、本降りになっちゃイヤん」みたいに祈っていた。
しかし、案の定、このようなときに限って、雨脚が強くなり、赤信号で捕まるのである。
確かに傍目から見ていると、そのような流れの方が面白いのだが、私は当事者だったのでまるで笑えず、傘を持つ信号待ちの人たちの群れの中に1人取り残されたのである。
「傘が無いから何だってんだ!そんなことで人間の質が決まるのか!誰も同情してくれなんて頼んでないからね!」と心の中で見えない敵と戦い続けながら、ひたすら青信号を待つ私。
そこにである!
1人のお爺さんが後ろから実に「そ~~っと」忍び寄り、実に「そ~~~っっと」持ってた傘に私を一緒に入れてくれたのである(顔を一瞬だけチラッと見て、お爺さんであることが分かったのだが)
いやいや「悲しい気分」+「雨脚強まり」の状況で、そんなんされたら、もう泣いてまいますやん!惚れてまいますやん!
特に「おいおい、そこのお若いの。傘も買えずに哀れなことじゃ、、、」みたいな日本むかしばなし的なことを言うでもなく、「お地蔵さんに優しいお爺さん」的な流れでもなく、何も言わず「そそ~~~~っっっ、そそそそ~~~っっっ」(ちょっと盛り始めてますが w)と傘に入れてくれたというのも、実に何と言うか、、、アレでしょ?分かってくれるかな?
最後の表現は、少しふざけて盛ったかもしれないが、実に「気高い」お爺さんに心を救われ、私はそのことに今でもとても感謝している。
その後も雨はやや強いままであり、決して濡れずにバイトの面接先に着くことができたという話ではない。
ただ、泣いている自分の心にお爺さんが傘を差してくれたような気がして、気分は少し晴れた。
時間にして、人生のホント1分足らずであったと思うが、人の「決して恩着せがましくない優しさ」みたいなものに触れた瞬間であって、今でも忘れられない1分足らずである。
似たような状況に遭遇したときに、自分にそういった「恩着せがましくない優しさ」みたいなものが少しでもあるのかどうか、正直よくわからない。
人は人に優しくしようと思っても、その瞬間になると気恥ずかしさや怖さなんかで、体が動かなかったりすることがあると思う。
そして、自分が「不遇な不幸な環境」に置かれていると感じている場合、人に優しくできなかったり、人の優しさに触れても、その場で素直に感謝できなかったりすることがあると思う。
そのとき「不遇な環境に置かれている」と感じていた私は、そのお爺さんの優しさに心が救われながらも、素直に「ありがとうございました」とも言えず、振り返らずにそのまま立ち去った。
そのときの私に「優しさ」あるいは「優しさを受け入れる余裕」が無かったことの言い訳であり、懺悔である。
、、、因みに、バイトの面接は落ちた。。。
もう1つエピソードがある。
先ほどと同じように、私が海外に出る前の若い頃の話である。
このとき大学はすでに卒業していたのだが、私は卒業後しばらく「海外出発準備」などと称して、1人暮らしをしながら、いわゆるフリーターのような状態であった。
海外に出たいという夢はあったのだが、なかなか踏ん切りが付かず、正社員の仕事もなく、悶々としていた時期である。
そのとき英語力を磨きたく、一時期、英会話スクールに通っていた。
名前は伏せるが、後々になって結構叩かれることとなる「〇前留学」みたいなのを売りにしていたスクールである。
このスクール、貧乏フリーターにとっては結構な額の学費であり、基本的にはお金に余裕のあるビジネスマンや経営者、専業主婦のような方が多かった印象である。
学費は安くなかったが、通常のクラスのほかにチケット制の「ボイスルーム」なる会話スペースがあり、そのスペースのコスパが良いと感じてムリしてローンを組んで、そのスクールに通っていた。
上に述べたとおり、そのスクールは(少なくとも貧乏フリーターよりは)経済的余裕がありそうな人が多く通っており、私は何となく肩身の狭さみたいなものを感じていた。
そこに通う専業主婦たちも何となく金持ちマダムみたいな人が多く、私は彼女たちにも勝手な僻み根性みたいのを持っていた(向こうは何とも思っていなかったのだろうが)。
さて、ある日、どう考えても誰もが傘を持って家を出るというほど降水確率100%の日のことである。
私はアルバイトも休みだったため、英会話スクールに向かっていた。
そこで雨が降り出したが、案の定、私だけが傘を持っていなかった。
(チョイチョイ「天気予報見ない病」が発症するのである)
その日も傘もない上、傘を買うコンビニも近くにないという実にワンパターンな状況であり、私はこと雨に関しては、あまり学習していないのかもしれない。
ただし、その日は、何とか本降りになる前にスクールにたどり着いた。
髪の毛も服も少し濡れてはいたが、私は着の身着のまま家から出てきて、タオルも何もない状態だった。
そこまで激しい雨にあたったわけではないので、無頓着にスクールの英会話スペースに入ったら、ちょうど休憩時間で講師はおらず、いかにも上品且つ強面なマダムが1人で部屋に座っていた。
初めて見る顔であったが、(私の手前勝手な僻み根性により)いかにも好きになれなそうな金持ち風マダムである。
私は「こんにちは」と言って部屋に入り、そのマダムも私に「あっ、こんにちは」と返事をした。
そっぽを向いて座っていた私に、マダムは「いや、あなたその頭~!風邪引くよ~」と言った。
その頃、懐も心も貧しくてギスギスしていた私の心は、傘も持たずに濡れる自分のみすぼらしさみたいなのを指摘された気がして、「あっ、別に大丈夫っすよ。そんなに濡れてないっすから」みたいな素っ気ない返事をした。
実際、そんなには濡れていなかったのである。
マダムは「いや、大丈夫じゃないよ。ちゃんと頭拭きなよ~」と言って、高そうなハンドバックからハンカチを出して、そのまま私に渡してくれたのである。
ん?ハンカチ?
ティッシュとかならまだしも、何と言うか、初対面の女性のハンカチを使って私(男)の濡れた頭を拭くというのが、何とも罰当たりな気がした。
さすがに私も不貞腐れたような態度を取り続けるわけにいかず、結構丁寧に「あっ、いやホントに全然乾き始めてるんで、、、」みたいな感じで言ったと思う。
ただし、このマダム、上品そうに見えるが、なかなかゴリ推しの強いマダムであり、そのままだと自分で私の頭を拭きかねない勢いでおり、結局ハンカチを拝借することとなった。
ギスギスしていた時期の私であるが、「ありがとうございました。じゃあ、洗って返しますから」ぐらいのことは言った。
マダムはそのまま「もう大丈夫なの?そんなこと気にしなくていいから」と私の手からハンカチを取って、何食わぬ顔で世間話をしている内に、ほかの人たちも部屋に入ってきて、マダムとの会話はそこで終わった。
私が勝手に持っていたイメージとは異なり、優しくもあり、何とも強引なマダムでもあった。
何気ないやり取りのようでもあり、「そんなの別に普通じゃん?」と違和感のない方々には、私の度量の小ささを見透かされた感じで、少し決まりが悪い。
ただ、私が今のようなおっさんではなく、若い男の子だったという点を差し引いても、その頃の私には「初対面の人」に自分のハンカチを使って濡れた頭を拭かせるというのが、何と言うか自分に発想できない優しさと感じたのである。
その頃、いつも斜に構えて、どうせ誰しもが自分のことを「何者でもない」と感じているのだろうと不貞腐れていた私の心が、またもや救われたような気がした出来事であった。
最初のお爺さんのエピソードとはまた状況が異なり、今回は私が先にその優し目マダムの人間性に勝手な「濡れ衣(ぬれぎぬ)」を着せていた分、バツが悪い(濡れていただけに、うまいこと言ったよ)。
そして、その「気高い」マダムには、半分面目なく、半分ありがたい気持ちである。
それにしても、自分の心が晴れているときよりも、心が「どしゃ降り」であるときの方が、こういった人の優しさを強く感じることができるというのも、人間何とも皮肉な生き物であると思う。
そして、正に4000年だか5000年の歴史である。
中国の言い伝えどおり、「気高い」人は雨の降る日にやって来るのである。
そんなこんな有っても、雨がどうしても好きになれない私ではある。
しかし、雨が降るたび、またこういった「気高い」人たちに会えるかもしれないと少しワクワクし、「傘も持たずに」外に飛び出してみようかといった遊び心を持て余しているのである。