『ゴジラ-1.0』
外から見たゴジラ
真っ暗な映画館内に重低音が響く。耳障りな、しかし聞き慣れたリズムだ。IMAXの巨大スクリーン内では、小洒落た街並みを覆い尽くすように、鋭利な岩を体中に生やした壁がまっすぐに立ち上がる。壁の片方にある長い尾は地面を裂くようにゆっくりと揺れ、もう片方にある二つの目はこの世の憎しみを閉じ込めたかのように燦々と光っている。街を破壊して歩くカイジュウの全貌をとらえたヒロインがその名前を呼ぶ。映画に詳しくない人も必ず知っている名前。「Godzilla」という一言に、場内の全員が息を飲む。
エンドクレジットが流れ始めて照明が灯るなり、最前列に座っていた若者たちが勢いよく立ち上がる。後方を振り返り、大きく腕を揺らしながら、そのまま書き留めるには少々荒っぽい口調で叫ぶ。意訳すれば「最高に面白い」といった言葉を興奮気味に繰り返している。みなハイティーンといった感じで人種や民族性はばらばらだ。ハリウッドのリメイク作品を除けばゴジラを映画館で見ること自体が初めてだろうと思った。トロントで映画館に通う身としては、エンドロール中に沸き立つ若者を見ることは珍しくなかったが、同時に不思議な気分もした。
トロントの映画館で日本映画を見る。私が移住してきたばかりの頃は小津安二郎や今村昌平などの名作を映画祭やシネマテークで見ていたものだが、最近では新作を大型映画館で見る機会も増えた。特に『ゴジラ-1.0』と宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が同時期に公開されて、戦後の日本を海外から見るという、どこか奇妙な体験をした。どちらの場合も場内は満員。改めて日本の怪獣やアニメが世界中で愛されてきたことを実感する。
故郷を離れても戦争や災害のニュースはすぐ耳に届く。そのたびに人々が復興に向けて動く様子を見聞きする。物資を分け合い、募金を集め、情報体制を見直し、祈りを捧げ、壊れたものを直す。援助があったとしても、大事なものは内側からしか直せない。
『ゴジラ-1.0』が世界に放ったメッセージは生きろ、というまっすぐなものだった。それは子供の頃、眠りにつく前に祖父が聞かせてくれた戦時中の話に似ていた。子供相手だからゴジラ映画とは違って残酷な表現は避けてあったし、初めてアイスクリームの味を知った日や、近所の畑から蜜柑をくすねようとして穴に落ちた時など、楽しい逸話を挟んでくれた。それでも祖父の中に眠る生存者としての安堵と恐怖にも気付いていた。子供相手だから生きる喜びだけを伝えたかったのだと思う。辛い思いをしても祖父はそういう優しい人だった。
生きて、残る。生きることで罪悪感や後遺症が残るとしてもあなたに生きてほしい。そんなシンプルなメッセージだからこそ文化や環境といった壁を越えて心に届く。復興に向けて尽力する全ての人が聞いている、生の鼓動は、トロントの若者たちの中でも確かに響いていた。