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ロマネスクのロマネスクじゃない部分が太宰な話
太宰治の短編集を買った。『駆け込み訴え』が収録されていたからつられて購入した。
あとがきを井伏鱒二が書いており、「『ロマネスク』が力作だ」と言われてしまったので早速読んでみる。短いし、話がぐいぐいくる面白さなのでどんどん読ませる。
「よくこの話に『ロマネスク』ってタイトルつけたな」と「これは間違いなく『ロマネスク』ってタイトルだわ」と両方の気持ちに揺らぎながら読み終えた。
短編なのに3人の登場人物『仙術太郎』『喧嘩次郎兵衛』『うその三郎』の半生を書いた三つの章があり、ひとりひとりにフォーカスした最後にその見ず知らずの三人が顔を合わせるのはロマネスクを感じる。
最後にうその三郎がお互いの身の上話を聞いて叫び「私たちは芸術家だ」とやるのもロマネスクだと思う。
戦術太郎の章は父親がなんだか掴みどころのない息子を理解しようと努めるあたりはロマネスクだと思う。しかし太郎の生みの親である嫁のことをあまり愛していないところと、太郎の特殊な才能に助けられた村の人たちがその功績を少しずつ忘れはじめて「あほう様」だなんてひどい呼び方をするのは現実的だ。
そのうち父親の蔵書から仙術の本を見つけ体得し、恋をして、仙術でいい男になろうとしたものの考えなしで上手くいかず元の姿に戻れなくなるところははロマネスクというよりオチ感がある。こんな結末の不条理系ギャグ漫画をよく見かけた世代だからこその感想だろうか。
そう思えば日本のギャグ漫画にはロマネスクの趣きが根底にありそうな気がする。
喧嘩次郎兵衛の章は全体的にロマネスクな空気感はあるがアイロニカルだとも感じる。
喧嘩に強くなりたくて、そのために努力して強くなって、なのに肝心の拳は使い所がなく、存在だけで勝てるようになったもののちょっと力を見せたくなって大切な人を戯れに殺してしまう。こんな悲しきモンスターに純文学でお目にかかるとは思わなかった。
とにかく修行の描写が細かい。目標とスケジュールを決めてちゃんとこなしている。強くなるためにカッコつけるところまでちゃんと毎日修行しているのだから偉い。
これを嬉々として書いているだろうことが分かる太宰治の筆致が一番ロマネスクであるように思えた。
うその三郎はもう太宰である。ロマネスク云々というより太宰という感じがする。
なんというか太宰。なんとなくクリスタル。なんて素敵にジャパネスク。韻を踏んで遊んでいる場合ではない。踏めてもない。
そこに気づいてみるとこの『ロマネスク』のロマネスクじゃないところは全て太宰治という感じがするのでやはり作品は手癖と技巧のバランスだなぁと思う。
「声は違うけど椎名林檎っぽいな?」と思ったら楽曲提供がそうだったり、「ばいきんまんが出てきそうな曲だな」と思ったらいずみたくの曲だった、みたいな「らしさ」が潜んだ作品がとても好きなので太宰部分を楽しみながら読めてよかった。
読後の今、「これは『ロマネスク』ですか?」と聞かれたから「ええそうですね」と答えると思う。その太宰の部分も含めてロマネスクだとなんとなく腑に落ちた、ような気が、しないこともないことも、ない。
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