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いつまで経っても大人になれない気がする


こんにちは、チャオです。

違うことに集中していたら前回の更新から約1ヶ月も経っていました。


今日はタイトル通りですが、「なんだか私、このままずっと大人になれずに生涯を終える気がする」と漠然と思うことがあるので、その心境をそのまま書いてみます。



大人になる一般的な通過儀式

 「大人」ってなんだろう? って考えたときに、真っ先に思い浮かぶのはやはり自分の親です。生まれたときから一番近くにいる大人。


親と自分はもちろん別の人間なので、そのままお手本にすることはないけれど、でもやっぱり何か大きな選択肢が目の前に来たら、両親だったらどうするだろうか、なんて考えます。


そして、最近では特に
自分は結婚できないだろうなぁとか、だったらたぶん
子どもを産む or 持つ という選択肢も取らないだろうなぁと考えては、


なんだか「大人」になれない気がするな

と思ってしまうときがあるのです。


それはおそらく「大人」というのは結婚して、子どもを持って、マイホームを購入して……みたいな典型的な考えが自分のなかに根強くある証拠なのだとも感じています。

だからその道筋を辿れない自分は、いつまでも子どもなままというか、「大人」にはなれない気がしてしまう。

そんなことはないはずなのに。



何もかもがキラキラして見える学生時代

 学生時代を振り返ってみると、自然と自分もそういった大人への通過儀式を辿っていって、いつの間にか大人になっているのだろうと漠然と思っていました。

会社に入って、仕事をするうちに出会いがあって、そして結婚して……お給料が上がっていってマイホームを購入、みたいな。


でもそんなふうに漠然と思い描いていた未来も、その道筋を辿ることはなさそうだと気がついたのは、社会人になってから。


第一希望で内定をもらった会社からは、希望していなかった本社へと呼ばれ強制的に上京することになり、さらに上京したときにはトイレットペーパーやマスクすら手に入らない新型コロナの影響の真っ只中で。

「東京本社」に呼ばれた! と内心では誇らしく思いながらも仕事をしていると、新型コロナの影響を真っ向から受ける国際系の業種であったため、入社まもなくして上司から「もしかしたら数年先まで昇進はもちろんボーナスも出ないかもね」なんて声を聞き、そう言っていた上司もどんどんと転職していきました。

ここにいちゃダメだ、と直感的に思って半年で辞職を決意。


辞職した直後は周りから「そんな早く決心するなんて勇気がある! すごい!」みたいに言われていた一方で、「会社で安定して仕事するのが一番」なんて捨て台詞のように放たれて、連絡が来なくなった大学時代の友人もいました。さらにそんな友だちが、いつの間にか名字が変わっていて、更新されたアイコン画像では子どもを抱いて、いわゆる普通の「大人」になっているのを一方的に報告される。


そんなことが続くと、ふと

私が思い描いていた「大人」ってどんなだっけ?

と思ってしまう。


自分に聞いてもその答えは返ってきません。



自分は自分で個人として働いて、毎日元気でそれなりに楽しく過ごしている(つもり)です。でも長いスパンで人生を見通してみたときに、このままで大丈夫? と思ってしまうのも正直な気持ちです。


まだまだ不安定な収入と仕事、生涯「おひとりさま」は嫌だけど結婚はできない、そうなると自分が老いたときにどうすれば良いだろう? なんて。

自分が積み上げたものを後ろに継ぐ人がいないとなると、最後はどうすれば良いんだろう、なんてことも考えます。

どれもこれも自分が寿命まで生きれば、の話なのですが。



世間で長い間ずっと信じられている、いわゆる「幸せ」の定型のカタチを一つも辿れないであろう自分は、どう「幸せ」のカタチを築いていけば良いのだろうと。


自分が人生を終えるとき「仕事も夫婦生活も色んなことがあったけれど後悔はない」「あの子を産んで良かった」「自分の財産を残せて良かった」こんなふうに言える要素が一つもないまま生涯を終えるとき、自分はどう思うだろうかとか。


もしも、それら以外で「幸せ」の新しいカタチを生涯で見つけられなかったら、どうしようかなとか。



時代の大きな過渡期で、新しい時代と古い時代に挟まれたいまだからこそ、新しく自由な人生モデル or 古来の安定した人生モデル の両方を知っているからこそ、悩んだり考えたりしてしまいます。



学生と社会人での違い


 学生時代は、世界が光に溢れているような感覚で、全てが目新しくてやりたいことがいっぱいありました。どんなできた話の映画でも物語でも、純粋にフンフン! と目を輝かせて鼻息を荒くして、胸いっぱいで見て。そこには将来、自分もこうなれるかも?! なんて夢見る余裕のある可能性が無限大にあったからかも知れません。

まるでDisneyの『ソウルフル・ワールド』で地上に降り立ったソウルナンバー22のように。


でも社会人になってから、特に個人事業になってからは過去の経験があるからなのか、「う〜ん、でもこの先この経営で繁盛するとは限らないしなぁ」とサクセスストーリーのその先を勝手に吟味したり、「こんなふうに突出した才能がある人は良いよね」なんてどこか自分とは区別して冷めた目で見てしまうことがあります。


もしかしたら私は、つまらない「大人」になってしまっているのかも知れません。





ゴーカートと本物の車

 小さい頃から車に興味があった私は、ゴーカートに乗るのが大好きでした。
ハンドルを握りしめて運転するも、カーブをうまく曲がれずにガコンガコンとレールに当たって、その衝撃で車が大きく揺れたのすら心地よくて楽しかった。


エンジンの振動とガソリンの匂い。

太くてまだ十分に握りしめることのできないハンドル。

足が届かず、硬いペダルで踏み込めないアクセル。



……待ちきれずに17歳から教習所に通い始め(路上に出たのは18歳になってから)わざわざマニュアルの免許を取り、これでスポーツカーに乗るんだ!! なんて思いながら夢を膨らませていました。



いざ、大人になって24歳の夏、夢であった自分の車を購入。
嬉しかったし楽しかった。でも一度買ってしまうと少し満足してしまった。
もちろん楽しいのだけれど、心のある部分がそれですでにある意味で満たされてしまったのです。

どこかで、あのときのゴーカートの方が楽しかったかも? と頭によぎるときがあります。




学生時代の髪染め

 高校生のとき、学則で禁止されていた髪染め。
リンゴ酢で脱色するとバレない程度の茶髪になるらしい! と聞いてわざわざ髪の毛を痛めて、他人から見ると分からないぐらい微妙に明るくなった髪の毛を何度も鏡で見ていました。髪の毛の色が変えると、また新しい自分に出会えるんじゃないかと真剣に思っていたからです。


高校時代にしていたコーヒー専門店での接客バイトでは「髪色が黒いから幼く見えるのだろうな」なんて悩みながら、高校の卒業式が終わったら絶対に染める! と楽しみにしていました。

そして高校の卒業式の翌日、買ってきたカラー剤で初めて髪の毛を自分で染めました。モカブラウンとかいう地毛に近い焦げ茶みたいな色に。


そこからは、青系とか緑系の色にしたらどうだろう? 赤っぽいのはどうだろう? 金髪にしたら青い服が似合うかな? アッシュ系も良いなぁ、なんてどんどんやりたい髪色が増えていって、学生時代にしかこんなことできない! と思い切って一通り髪色を変えてみました。


赤っぽいの、緑っぽいの、青っぽいの、金髪、アッシュグレー。


大人になってどんな髪色でもいい環境になったいま、結局は地毛の黒髪に戻っています。笑

何色に染めても良いのに。

色んな髪色にしたけれど、結局自分には生まれ持った髪色そのままの黒髪が一番似合うことに気がついてしまったのです。


アイドルとかを見て、たまに明るい色にしたいななんて一時的に思うことはあっても、基本的に髪の毛を染めたい欲はなくなりました。

それもこれも経験したから、それで満足したのかも知れません。


そうやって自分の満足を、実際に行動して経験で埋めていくのが、大人になるということなのかもしれないと気がつきました。今これを書きながら。


もしそうなのであれば、これからも色んな経験を積んでいけば、いつの間にか大人人になっているのかもなぁ。


あーだ、こーだとダラダラと書いてしまいましたが、特に心配しても将来は未知数で思った通りにはならないけれど、それはそれで自由で良いかも知れないなと最近は意識的に思うようにしているのが私なりの解決策です。


みんな、どうやって「大人」になったのだろう。

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