
2024年の終わりに彷徨える28歳が見つける「執着を手放す」生き方
11月末に仕事をやめて、今ではすっかり実家生活を謳歌している28歳独身。日々の労働による不安から解放され、心の余裕が生まれた。次の仕事までの間に身につけておきたいのは、心の余裕を持って生きること。日々の暮らしが結果至上主義的な色合いを強くしているが、それでもなお、自分自身を知り、無用な執着を捨て、おおらかに生きていきたいと気持ちを新たにする。今期のドラマ「モンスター」からの示唆もあり。
もうすぐ2024年が終わる。いつも散髪に行くと「もう〜月になりましたね」「あっという間に年越しますよ」などといった世間話を会話のきっかけにしているが、一年が終わりに近づけば近づくほど、時間が経つのがやはりあっという間に思える。
今年11月末で仕事をやめた。わざわざこの場で発表するようなことではないと思っていたが、仕事をやめたことによる心の余裕は大きく、無視できない。こうして記事を書くことができているのも、目の前に不安や緊張の要因がなくなったからである。その過程で、一人暮らしをやめて、実家で暮らすようになった。このこともまた、生きやすくなった要因の一つであろう。
労働からの解放
2019年11月から勤務していたので、5年間働いたことになる。5年ともなれば、その間に結構な記事を書いたものだが、全て紹介できないので、興味のある方は、ぜひ読んでもらえれば幸いである。
2022年4月に人事異動があり、職場が変わった。以降、特に慌ただしい日々を過ごし、仕事中心の生活となった。残業がものすごくたくさんあるというわけでもなかったが、シフト制で働いていたため、起きる時間・寝る時間は不規則になったし、食べるものもジャンキーものを好み、偏りがちになった。休みの日にも仕事のことで何か良くないことがあるのではないかと考えるにつけ、常に不安だった。
退職してからも、しばらくはそういう不安感から抜け出すことができなかったが、実家に引っ越しし、前の会社と物理的に距離を置くことで、徐々に落ち着きを取り戻すことができている。今は、穏やかな日々を過ごしている。
4月になったら強制的に労働への道が待ち受けているが、それまでは自由である。実家で生活するから家賃を払わなくて良い。生活費もほぼかからない。ただ、貯金もないので、遊び回ることができるかと言われると、難しい。
現状認識と不安
28歳になったが、おそらく世間一般の平均的な年収はない。第一、ボーナスもなかったので当然と言える。恋人がいるわけでもないから、この先もずっといないのかと気持ちが思いやられる。
上の記事は26歳になる直前に書いたものだが、その時から何か大きな進歩があったわけではない。ただ、先述のように、今は心の余裕がある。当時とは違う点である。新しい仕事に就いたら、また余裕がなくなるのかもしれないが、そうならないように、心の平安を保ちたいと思う。この境地に達したことは、小さな進歩であると言えるだろう。
中国哲学との出会いから思うこと
大学時代に、中国哲学の研究をしていた。卒業論文では、「性悪説」を唱えたことで知られる荀子にフォーカスした。「性善説」を唱える孟子とよく比較される。とはいえ、両者はともに、人間の内面にある善性についての前向きな可能性を信じていた点は共通している。努力を積み重ねることで人格の完成者たる「君子」になることができる、と。
現代社会に当てはめてみると、どうだろうか。資本主義・自由主義の社会は、競争、成長、効率を重視し、結果がほとんど全てであると言っても過言ではない。そのため、積極的に行動し、正しく努力を積み重ねなければならない。どれだけの富と名誉を得ることができるか。それによって、他者から「評価」される。SNSの普及も、結果至上主義に拍車をかけていると言わざるを得ない。
私もなるべく与えられた仕事は引き受け、上司の期待に応える結果を出す」ということに価値を見出していた。世間一般の「評価」はどうであるかわからないが、少なくとも社内では「評価」されるように努めた。しかし、そのような「評価」を追求するための努力には限りがない。存在を承認されるためにできることはすべきだと考えていたので、苦しい時期が続くことになった。
他人と比較して自分自身を「下げる」こともあった。20代後半ともなれば、結婚適齢期という意識が強くなる。早いと出産して子どもが複数人いるということもある。重要な仕事を任されていれば、高年収であることを想像させる。なぜ自分だけが苦しい思いをしなければならないのか」という疑問を抱いたのは、SNSに過度に依存していたことの表れだろう。
孟子や荀子の儒家思想は、徹底した努力と修養を通じ、高みを目指すことに「価値」を見出す。学生時代に研究しようと思ったのは、人間の前向きな可能性を信じていたからであるが、今や、終わりのない努力は苦しいものであって、いつまでも続けることは困難であると感じている。「たまには肩の力を抜いて」と言う人の気持ちがようやく理解できるようになった。
儒家思想から老荘思想へ
それに対する対処法として、儒家思想とは正反対の老荘思想に着目したのは、ごく最近のことである。常に競争にさらされ、結果を求められる現代社会において、老荘思想の「無為自然」「足るを知る」という教えは、心の平静を保ち、ストレスを軽減するのに役立つ。現代社会におけるあらゆる「価値」は、人為的なものに過ぎない。人為的な「価値」を超越し、自然の流れに逆らうことなく身を委ねることで、あらゆる執着を手放せるのではないか、というヒントを与えてくれた。
「あるがまま」を受け入れること。社会的に「価値」づけされていることと自分自身が「価値」づけしていることが必ずしも同一ではないということを、冷静に見つめ直す必要がある。人為的なものに「価値」を見出さないのが老荘思想の基本的態度であり、自然と調和して心安らかに生きることが望ましいとされる。取るに足らないことで心をすり減らし、人生が面白みなく思えてくるというのは悲しい。
少し視点を変える勇気を持つことで、一歩前に進むことができれば、人生がつまらないということ自体が些細なことに思えるかもしれない。そうなったらしめたものである。
ドラマ「モンスター」の事例
趣里が主演を務めるドラマ「モンスター」の最終話では、巨大企業が引き起こした公害問題に関する民事訴訟が描かれていた。長年にわたる訴訟で疲弊していた住民に対し、企業側はついに、産業廃棄物処理によって生じる有害物質が生物に健康被害をもたらすことを認め、金銭的な補償を含む和解案を提示する。
住民側は、当初この和解案を受け入れた。しかし、その後の住民説明会で、企業側の対応や説明の不十分さ、そして「誠意」の欠如を感じた住民から不満が噴出する。「誠意がない」「形だけの謝罪では納得できない」という声が相次ぎ、企業側にさらなる補償や謝罪を求める事態となったのである。
趣里演じる神波弁護士は、原告、すなわち住民側の立場であったにもかかわらず、住民の姿勢を厳しく非難する。「いくらもらえれば納得するのか?」「どうすれば幸せになれるのか?」「あなたにとって幸せとは何か?」という問いは、まさに「足るを知る」という教えと対照的な社会生活を送っている多くの人々への問いかけと言えるだろう。私はこの場面に、心の中で大きな拍手を送った。
利害損得への執着と自己認識の不完全さ
結果を出していない私のような人間の愚考であることは言うまでもないが、利害損得に執着することで、かえって精神的な余裕が失われているようでは、本末転倒と言える。
その要因は、つまるところ、自分自身の能力を見誤っているからではないか。過大評価していることもあれば、過小評価していることもあるだろう。もちろん、努力することや挑戦することは悪いことではなく、人間社会が発展していくために欠かせない。しかし、そうした「価値」に執着するような見方は正しいと言えるだろうか。かつて、中野信子『努力不要論』(フォレスト出版、2014年)では、誤った方向性の努力をし続け、努力することそのものが「中毒」になっている現代人に警鐘を鳴らし、話題となった。もう10年ほど前のことではあるが、あれから時代が進んでも、その考えはさして古臭くはなっていない。
終わりに
個人主義が極まったことは嘆かわしいとされることもあるが、本当の意味で個人が個人として個人の幸せのために、心穏やかに人生を送ることができていたならば、どれほど素晴らしいだろうか。だから、そのような文脈において、個人主義が悪だとはいえない。一般論として、努力や挑戦は大切だとしても、それが人生の全てではない。時には立ち止まり、自分自身を見つめ直し、他でもない自分自身にとって本当に大切なものは何かを考える時間を持つことも必要なのではないか。
人生は長い。だからこそ、苦しむことなく長く走り抜くために個人個人が工夫する必要がある。競争と調和、努力と休息のバランスを取ることこそが、現代社会を生き抜くための重要な鍵となるだろう。
SNSで一喜一憂していても、他人の人生はどこまでも他人の人生である。自分の人生を歩むために、手放すべきものは手放していこう。長々と書いたが、以前の私の記事を読み直すと、その答えの一つが書かれていた。ここまで散々駄文を弄しておきながら恥ずかしい限りだ。ただ、このような問いというものは、人生で何度も直面するということを再確認できたので、よしとしよう。
老荘思想を現代社会に落とし込むことは容易ではないが、知っているのといないのとで、気持ちの持ちようが変わってくることは間違いない。