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映画「ちょっと思い出しただけ」でコロナ禍を「舞台装置」にする試み

2020年。新型コロナウイルス感染拡大という想定外の出来事が起こった。緊急事態宣言の発出により、あらゆる社会経済活動が停止し、特に、飲食業や観光業などのサービス業に大きな影響をもたらした。

それから、2023年5月に新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けが5類へ移行するまでの間、社会経済活動も同時に一進一退した。当然、サービス業でなければ影響がなかったということはなく、あらゆる人々の生活に影響があった。エンタメ業も例外でない。紛れもない非常時であった。他方、「おうち時間」や「リモートワーク」といった「新しい生活様式」も出現・発展した。

葉(伊藤沙莉)はタクシーの運転手をしている。まさしくサービス業に従事しており、コロナ禍でもマスクを着用して客を運ぶ(2022年2月11日に公開された当時、マスクを着用した映画のキャラクターは珍しかった)。時節柄、客は少ない。

葉は、自分が「どこに行きたいかわからない」が、客が目的地を提示することにより「どこかに連れて行ってくれる」から、タクシーの運転手という仕事が好きなのだという。成田空港まで行って帰ってくるのが「ちょうどいい」。

一方、照生(池松壮亮)は、照明技術スタッフとして、経験を積む途上にあった。舞台芸術を構成するうえで、舞台・音響・照明の専門スタッフが出演者や演出家の希望する演出を具現化する「縁の下の力持ち」だ。体力と精神力が求められる。かつてはダンサーだったから、その点は問題ないだろう。

コロナ禍当時、「どこに行きたいか」わかっていたのに、自分が行きたかった道を閉ざされた人々は少なくなかった。人生の「アナザーストーリー」を受け入れることは苦しい選択だっただろう。

葉と照生が出会った当時、葉は、照生とは話してみて気が合いそうだな、仲良くなりたいかも、と感じていた。不完全で曖昧ながらも、自分の気持ちを前向きな行動に反映し、道を切り開く例えるならば、太陽である

対して、照生はどうだろうか。初めは、葉の思いに応えることができたものの、自分の目指すべき道が遠ざかるにつけて、焦燥感に駆られる例えるならば、月あるいは暗闇である(照生なのに)

ゆえに葉は、照生の苦しい気持ちを分かち合いながら、次なる道を前向きに切り開こうとするが、照生は、長年築き上げてきたものを否定されるかのように感じ、到底納得できない。いよいよ噛み合わないものだから、二人の人生もまた交わらない平行線のごとく遠ざかってしまったというのが結論だろう。

葉と照生は、どこか私たちの身近に存在するような等身大のキャラクターだ。そして何より、コロナ禍という壮大な舞台装置を用いながら、普遍的な人間関係の葛藤を描いている(人間ドラマ)ように思われる。「コロナ禍」の描写を足がかりにしてはいるが、今後も内容自体は古びることがないだろう。

「どこに行きたいかわからない」と思っているのは葉で、「他でもなく行きたいところ」があると思っているのが照生。要するに、大事なことほどお互いによくわかっていないままになりがちだということである。そのことに気づいてしまった時点で、どちらかが妥協するのが大人の対応である。けれども、お互いが話し合って納得する結論を得られないとなればそれまでだろう。

2025年。作品が公開されて、まもなく3年が経とうとしている。もうそんなにか、と思う。良い作品とは何度でも再会を果たしたいものである。同じ内容であっても、何度も鑑賞することに飽きない。新たな気づきを与えてくれる

気づきばかりではなく、何度でも感情を刺激されることもまたこの作品の強みであり魅力である。特に、寝る前に、クリープハイプ「ナイトオンザプラネット」を聴くと、文字通りじんとくる(MVも要チェック)。作品冒頭、タクシーの車中からライトアップされた東京タワーを臨みながら、あの曲が流れるのを想像するからだ。作品と曲が調和する心地よさは映画の醍醐味だ。


葉、照生、また会おう。さよーならまたいつか!(ではないか)

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