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イザナキとイザナミは、なぜ占いをしたのか?(国生みのエピソードからわかること)

イザナキとイザナミの国生みのエピソードには、いくつか不思議なところがあります。

前回は、イザナキとイザナミがなぜ、最初は国生みに失敗したのか、その失敗のエピソードに隠された意味を考えました。

今回は、国生みに失敗した際に、イザナキとイザナミはいったん天に帰って正しい国生みの手順を聞きますが、なぜそこで占いをしたのかについて考えていきます。


■どうして神が占いをするのか

まず、国生みのシーンについて振り返ってみます。

イザナキとイザナミは、諸々の天つ神に、「この(浮いた脂のように厚みもなくクラゲのようにあてどなく)漂っている国(の定まらない位置)を特定し、オノゴロ島を造営し、国を成せ(産め)」と命じられ(*註1)、あめ沼矛ぬぼこを渡されます。

それを受けて、イザナキとイザナミは、あめ浮橋うきはし(高天原から、まだ陸が出来ていない水に覆われた地に向けられた架け橋)から、沼矛ぬぼこを海に降ろしてかき混ぜます。沼矛ぬぼこを海から引き上げたときに矛の先から塩がしたたり落ち、積もってオノゴロ島ができます。

あめ沼矛ぬぼこは、手元に飾りのついた槍のようなもので、男性のシンボルを象徴(「頭痛が痛い」みたいな言い方ですが)しています。

それを海に刺し入れるのですが、矛が男性機能の象徴ですから、海は女性機能の象徴と解釈することが可能です。ギリシア神話のガイア(大地の女神)との類似性を感じますが、こちらは「母なる大地」ではなく、国生み前なので陸地は無く水に覆われている状態の「地」です。

また、あめ沼矛ぬぼこを海に刺し入れたのが、あめ浮橋うきはしであるところにも注目です。浮橋うきはしですから、架け橋とは違い、天(高天原)と地は、接触していません。
あめ沼矛ぬぼこを刺し入れた時が、天と地とのファーストコンタクトです。

そして、沼矛ぬぼこを海に突き刺したのは、男性神のイザナキの単独行為ではなく、イザナキとイザナミの力を合わせた行為であることも興味深いです。男性機能を行使するのは、男性神に限っていないという神話の構造が『古事記』にはあるのです(*註2)。

イザナキとイザナミは、あめ浮橋うきはしからオノゴロ島に降り立ち、あめ御柱みはしらを見立て、八尋殿やひろどのを見立て、イザナキからイザナミに性交して国土を産むことを提案し、イザナミはそれに合意します。

「見立て」というところが面白いです。現代風の言葉でいればAR(ポケモンGOのように、バーチャルなものが現実に重ね合わせて存在している状態)ですね。枯山水の庭などの「見立て」という日本文化は、国生みの時からあるわけです。

イザナキは、イザナミに、あめ御柱みはしらを右から廻り、自分は左から廻るので、出会ったところで性交しようと提案します。

こうして、イザナキとイザナミは国生みの儀式に取りかかり、お互いに逆方向からあめ御柱みはしらを廻り、再会したところで、イザナミがイザナキに「なんと立派な男性神であることよ!」と声を上げ、次にイザナキがイザナミに「なんと立派な女性神であることよ!」と声を上げます。

イザナキは言ってしまったたあとで、「女性神から声をかけたのは良くなかったな。」と口に出しましたが、そのまま性交して子どもが生まれます。

イザナキは、国生みの手順を仕切っていたのですが、声かけの時はイザナミに遅れを取ってしまいます。「うあぁ良いオトコ」と先に女性が声を挙げてしまってしまっているわけで、『古事記』の神々の男女関係は現代的と言えます。
これは、女が下がるという儒教的な男女観が中国から伝来する前の、古来の日本の男女観が『古事記』には反映されているからです。

最初に産まれたのはヒルコで、葦の船に入れて流してしまいます。次に淡島が産まれます。

ここで、二神は「今産んだ子らは良くなかった。天つ神の元に参上して申し上げよう。」と言って高天原に戻り、天つ神の命を請います。

そのようなわけで天つ神の命でフトマニで占いをして、「女から言ったために良くなかった。天降あまくだりからやり直して言い直そう。」と言って、あめ御柱みはしらの廻り方は先ほどと同じで声かけの順番だけを逆にして儀式をやり直し、今度は無事に次々に国を生みます。

イザナキは、「女性神から声をかけたのは良くなかったかな。」と気づいていたのですが、確信が持てなかったのか、イザナミに相談して高天原に戻って、天つ神に確認することにします。

イザナキもイザナミも天つ神なので、イザナキとイザナミが報告した「天つ神」は「別天つ神」(ことあまつかみ=特別な天つ神)であることがわかります。こと天つ神というのは、5番目までに誕生した神々のことです(下図参照)。

『古事記』冒頭の神々

注目すべきは、高天原に戻っても、イザナキ・イザナミは、こと天つ神に直接確認することが出来ず、占いをしてそのめいを確認する必要があったことです。

これは、高天原が「こと天つ神」の世界と「神世七代かみよななよ」の世界の二重構造になっているからで、国生みは、「こと天つ神」の世界を入れると3回目の世界創造なのです(*註3)。

世界は、「こと天つ神」の世界→「神世七代かみよななよ」の世界→「国生みによる世界」と抽象から具体へと創造が反復されます。これが『古事記』の世界観です。

神々であっても、1つ前の抽象度の高い世界の神々とは直接コミュニケーションが取れないことが、イザナキ・イザナミがフトマニで占ったことでわかります。


■キリスト教との類似

神と直接コミュニケーションが取れないというのは、キリスト教との類似を思わせます。

カソリックや正教会などの伝統的なキリスト教では、たとえ天使であっても、神の姿は見ることができないとされています。唯一、天使で神の姿を見ることができるのが天使ケルビムで、そのため「智天使」と呼ばれます。

見るといっても、視覚的に見るのではなく、智の働きによって神の存在を捉えることができるという意味です。逆にいえば、神との直接コミュニケーションは、神の方からの働きかけがない限り取れないことを意味します。

ちなみに、「智天使」の「智」は「ソフィア」と言います。上智大学(カソリックのイエズス会の大学)を英語名でソフィア・ユニバーシティというのは、智を愛する大学という由来があるからだと聞いたことがあります。神の姿を捉えるために智を磨く大学なんですね。

話をもとに戻すと、フトマニによる占いは、獣骨を火で炙り、出来たひび割れから意味を読み取る古代の解釈学です。現代的な「占い」という言葉から連想されるような、当たるも八卦当たらぬも八卦的なふわっとしたものではなく、もっとずっと体系的なものです。

神世七代かみよななよ」の世界のイザナキ・イザナミが「こと天つ神」の神意を知るためにフトマニで占ったことは、天使ケルビムが智の力を駆使して神の神意を見たことと構造的に同じと言えます。

『古事記』からかいまみえる神話的発想には、東西を超えて普遍的なところがあるように思います。


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#見出し画像は鳥取県のホームページから 卜骨ぼっこつ

*註

註1.原文では、天つ神もろもろのめいは、「このただよへる国を修理おさめ、固め、成せ。」です。この意味が、「この(浮いた脂のように厚みもなくクラゲのようにあてどなく)漂っている国(の定まらない位置)を特定し、オノゴロ島を造営し、国を成せ(産め)」である解説は、「通読⑪」をご覧下さい。ただしマニアックな解説で長文ですので、サクッと知りたい人は、通読は読まずに、そんなものかくらいに思って下さい。

註2.古事記の男女観は、現代の常識をそのままあてはめることはできません。これについての解説は、「通読⑬」をご覧下さい。これもマニアックな解説で長文ですので、サクッと知りたい人は、通読は読まずに、そんなものかくらいに思って下さい。

さらに、こうした男女観は縄文土器にも見て取れることを「通読㉒」に書いています。マニアックな解説に興味のある方のみ、ぜひご覧下さい。

*註3.高天原の二重構造については、「通読⑯」に解説しています。


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