『古事記』の描く世界のはじまり(現代語訳『古事記』では分からないこと 5)
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■天地初発
「あめつち(天地)はじめて発しし時」とは、いったいどういう時だろう。
よく誤解されるが、これは『日本書紀』が描く「天地開闢」では全くない。このことは、かの本居宣長も『古事記伝』で指摘しているのだが、第二次世界大戦の時の国家神道が『古事記』と『日本書紀』を一緒くたにしてしまったせいで、未だに世の中に誤解が根強い。
「天地開闢」は、全てが渾然一体となった状態から天と地が分かれていくありさまで、これは、中国由来の陰陽思想だ。『日本書紀』の冒頭は、漢籍(中国の古代文献)のコピペ(*1)なので、そこに書かれている世界のはじまりの描写が中国由来であることは不思議ではない。
これに対して、「天地初発」は、中国の影響を受けていないオリジナルの世界のはじまりの記述である。なにしろ、「初発」という漢字の並びからして漢籍には例がないものなのだ(*2)。
「天地初発」とは、天地の心の気づきである(*3)。
つまり、宇宙のはじまり以前から、存在としての天地はあったけれども、天地の意識がなかったために天地ではなかったというのが、『古事記』の描く世界のはじまりである。
「初発」という漢字の並びは、漢訳仏典を参考にしたものらしい。もちろん、仏典を参考にしたのは「初発」という漢字の並び方だけで、天地のはじまりのありさまではない。
仏典では、「初発心」のように心の気づきに対して「初発」の文字が使われている。
天と地とが、自らが天と地であることに気がついたことから宇宙が始まるのが「天地初発」であり、この発想というかあり方は、「天地開闢」とは全く異なっている。
ただ、『日本書紀』の「天地開闢」が、イメージがしやすいのに比べ、『古事記』の「天地初発」は、イメージしにくいかもしれない。それは、「天地開闢」のイメージが世の中に浸透しているのに対して(かつて国家をあげてプロパガンダしていたので当然だ)、『古事記』冒頭の記述は、その影に隠れて、いわば秘せられていたのだから仕方ない。
しかも、天と地とが、自らが天と地であることに気がつくという発想は、現代人にはないためになおさらだ。『古事記』の冒頭は、『古事記』が書かれた時代に既に失われつつあった発想を元に書かれているために、それを理解するには、どうしても当時の考え方を知っておく必要がある。現代の常識というバイアスが、『古事記』理解の妨げになるからだ。
■『万葉集』では山にも意識がある
「天地」が「天地」であることに気づくということは、「天地」に意識を認めることになる。そうなれば、当然ながらヒトや神々以外に意識ある存在を仮定してしてしまってもよいのだろうかという疑問が生じる。
ヒントになるのは『万葉集』だ。天智天皇(第38代天皇、在位668-671年)の皇太子時代の歌に次の一首がある。
中西進はこの歌について、「香具山(女)は新たに現れた畝傍山(男)に心移りして古い恋仲の耳梨山(男)と争った。神代からこうであるらしい。昔もそうだからこそ、現実にも、愛する者を争うらしい 。」と解説している(*4)
山に意識があることが当然のこととして歌われ、山がそうなんだから人もそうなのは仕方ないよねというこの歌では、山が人になぞらえるのではなく、人の方が山に倣っている点で、擬人法とはちょうど逆の比喩表現になっている。
もう一首、香具山をうたった持統天皇(第41代天皇、在位690-697年)の有名な御製歌を見てみたい。『古事記』は持統天皇の先代にあたる天武天皇の命により編纂が着手されている。まさに『古事記』と同時代の歌である。
この歌について、鉄野昌宏は、「人々が香具山で衣を干していると聞いた、というのではなく、「「香具山の様子が前と変わって見える。あれは、夏になって山が衣を干しているのだと言われているぞ」ということではないのか」と解説している(*5)。人が山に衣を干しているというのではなく、山が衣を干しているのだという考え方は、少なくとも中世までは通常であったそうだ。
香具山は、神聖視されてきた特別な山ではあるが、それ自体は神の名称では呼ばれない神の舞台である。天地も同様に考えれば、天地が意志を持つというのは、当時の人々の思考からは、決してとっぴな発想ではないことは学問的にも裏付けられていると言えるのではないだろうか(*6)。
■呼応する宇宙論
一方で、現代の常識が最新の研究で揺らぐ場合もある。天と地の気づきから宇宙が始まるとはどういうことなのか。宇宙論のモデルを参考に考えてみたい。
標準的な宇宙論では、約137億年前に極小の宇宙の素が生まれ、それが瞬間急激に膨張して大爆発し、現在の宇宙が形づくられたとする。有名なビッグバン理論である。
全てが渾然一体となった何ものかがやがて別れて現在に至るという点は、『日本書紀』の「天地開闢」の発想と同じである。
ただし、ビッグバン理論と「天地開闢」の描写は、時間とスケールが全く異なるので、「天地開闢」はビッグバン理論と同じだなどと理解してしまうと、ただのトンデモになってしまう。両者が等しいのは、あくまで、宇宙の最初の状態が全てが別れていない1つのものだったという点だけである。
ビッグバン理論の弱点は、宇宙の素がどこから生まれてきたかを説明できていないことにある。そこで、最近の宇宙論では、これを説明するいくつかの仮説が登場している。
例えば、ループ量子重力理論では、我々がそう感じているだけで時間には方向性がなく、したがって宇宙には始まりはなく、情報の蜘蛛の巣から普通の時空が立ち現れてくると説明する(*7)。
また、因果集合理論では、宇宙に始まりはなく無限の過去に常に存在していたと説明する。
ここ最近の宇宙論では、宇宙には無から有が生じるという意味の始まりはなく、常に存在していたと考える。特に、ループ量子重力理論では、我々の宇宙の始まりは、我々の宇宙の時間の始まりであるとする。
『古事記』の「天地初発」は、宇宙の始まりを物質的なものとは記述していない。ループ量子重力理論が示すように、時間の実体には過去から未来や未来から過去といった方向性が実は存在せず、我々生物がそのように感知しているだけだとすれば、感知する者の登場が(方向性のある)時間の始まりである。
天地は物質的な存在としてはあったが、そのことに意味はなく、天地が気づきを得たことによって天地となり、神々の時間が始まった。これが「天地初発」が意味するところである。
近年になってやっと、『古事記』の記述と共存的な宇宙物理学が登場してきた。また、大脳生理学も時間認識を研究対象として扱うようになってきている(*8)。これは、今が『古事記』を冒頭から読み直すタイミングであることを意味しているような気がしてならない。
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◎註釈
*1 ひとつ前の記事を読んで欲しい
*2 山田孝雄『古事記上巻講義 第1』1940年・志波彦神社・塩竈神社古事記研究会
*3 天地の気づきがはじまりという発想はなかなか説明しにくい。以前に対話で説明するという試みをしてみたことがある。次回以降に再掲してみるつもり。
*4 中西進『万葉集(一)』(講談社文庫、一九七八年)p.55
*5 「万葉研究、読みの深まり(?)~持統天皇御製歌の解釈をめぐって~」(『季刊明日香風』二〇〇七年)pp.7
*6 上野誠は、鉄野の考え方に賛同し、モノに人格がある歌については中国文学の影響を受けた擬人法であるという説があるけれども、そうではなく、古代の思考法が残っていると考えた方がよいと解説している(『日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 』(中公新書、二〇一五年)p.24)
*7 最新の宇宙論について詳しく語るのは私の手に余るが、ループ量子重力理論については、研究者の啓蒙書が何冊も翻訳されているので、興味がある向きはぜひ直接そちらにあたってもらいたい。『繰り返される宇宙』、『時間は存在しない』など。
*8 大阪大学の北澤茂教授の研究など
◎今回のあとがき
今回は、「天地初発」の解釈について、こだわって書いてみました。なぜか世の中には「天地初発」についてきちんと解説したものがありません。「天地開闢」とは異なることを丁寧に解説している『古事記と日本書紀』(神野志隆光・講談社現代新書)でさえも、『古事記』は宇宙のはじまりには興味関心がないから、天地は最初からあったとしているのだと書いています。これはちょっと疑問です。
宇宙のはじまりに興味関心がないのは、『古事記』の作者ではなくて読み手の方だったのではないのかと思っています。
神野志先生が活躍した時代には、ループ量子重力理論も因果集合理論もありませんでしたので、宇宙の始原から宇宙が「あった」という天地初発は宇宙のはじまりの描写ではないと捉えてしまったことも無理はないかと思いますが、それは興味関心がなかったからだと断ずる根拠には薄い気がします。
『古事記』は聖典として書かれたはずで、聖典には、宇宙の始まりの記述が無い方が不自然です。
やっぱり今は、『古事記』を読むのにふさわしい時代なんだと思います。
◎一部参考にしたもの
『日本書紀』の冒頭と漢籍との比較箇所については、『古事記と日本書紀』(神野志隆光・講談社現代新書)を参考にしました。
『古事記伝』(本居宣長)については、岩波文庫(1〜4)と『本居宣長「古事記伝」を読む(1〜4)』(神野志隆光・講談社)を参考にしました。
「天地初発」について確認した書籍論文は多数ありますが、結果としてどれも確認だけで終わりましたので、註釈に挙げたもの以外は割愛しました。
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