“魔法”と祈りはどう同じでどう違うか
💝日本の初等教育、幼児教育の基礎形成にキリストが与えた大きな影響
うちの娘らが子どもの時、アニメ『おジャ魔女どれみ』がお気に入りで、全シーズン(1999-2004)をVTRに録画して、よく見ていた。
私も横から見ていて、いろいろと感じたり考えたりしたことがあった。
▲『おジャ魔女どれみ』第1部のエンディングテーマ。
日本の児童文学の系譜を汲み、子どもたちに何を伝えたいかのメッセージ性が日本らしい情緒豊かに表現されていると思う。
子らに最高のものを与えたいという、
アニメーターたちの志の高さに共感する
連れ合いと娘の一人は保育士だし、私は物書きの端くれだ。
やはり、児童文学、ということを考えてしまう。そういう角度から、子らのお気に入りのおジャ魔女どれみを捉えてみるわけである。
おジャ魔女どれみは、日本の子どものための音楽や児童文学の歴史の系譜に連なっている、と思う。
「港」という唱歌がある。
実はある方のFBで、唱歌「港」の替え歌が話題になっていた。
元 歌:空も港も 夜は晴れて 月に数ます船のかげ
替え歌:どれみちゃん鼻たれ 目はどんぐり目 頭の横ちょにハゲがある
という具合で、しかもどうも全国で、いろんなバージョンがあるね、というのが話題であった。
「どれみちゃん」という名前で、どうしても、明治に創られた(ちなみに日本人によって作曲された初の3拍子の曲であるとか)子どものためのこの唱歌とのつながりを推測してしまうわけだ。
「港」の音程を記しておこう。そうするとなぜ、そういう替え歌が生まれたか、自ずと推測される。
音 程:♪ドレミーミソラソーソ ミレドーレーミー
西洋音楽が入ってきて、それを使って歌を作って心を伝え、そのことを子らに教えるという文化の営みの中で、「どれみちゃん」(鼻たれだったり、おっちょこちょいだったり、しかし、皆によく知られ、愛されキャラの)の登場と相なったわけだ。
話は飛躍するが、私は「おジャ魔女どれみ」を全シリーズにわたって見ていて、
これは、魔女マンガの装いをしているが、生きるとか、友情ということをしっかりと考えさせる作品だと思った。日本のアニメの系譜から考えると、そういう装いをしているからこそ、そうなのかもしれない(『魔法使いサリー』最終回では、サリーが、自分があまりに大きな代償を払わないといけないと分かっていながら、自分たちの大切な学校が火事になっているのを救う)。
「魔法アイテム」で企業が儲ける(それも大事なことだが)ことだけが目的の魔女マンガと舐めてはいけないのだ。
私は、『おジャ魔女どれみ』は、魔法による解決ではなく、人間としてしっかり生きるように成長する尊さを教えてくれる良質のアニメであり、日本の児童文化の中に残るべき作品だと思ったのであった。
日本のアニメーターの、子どもたちに最高のものを教えてやりたい、感じてもらいたい、という明治以来の児童文学の情熱が、このアニメにも現れているという具合に感じたわけだ。
小学校3年生の時、「MAHO堂」に出会ったどれみちゃんと、その友だちたちは、毎週わくわくしながらテレビを見ている子らと同じように、少しづつ学年が上がり、2004年は6年生となり、中学に進んで、子どもの世界から大人の世界へと足を踏み入れていくことを予感させてシリーズが終わる。
全シリーズを通して6年生になった時に、どれみちゃんたちが到達していた結論は、人生の大事なことは魔法を使わない。自分(たち)が人間として試行錯誤して、あきらめないで努力をして解決に至る、という生き方だった。魔法の使えないそれは、大変であるけれども、それが人間らしく、だからこそ、人間である自分にとって本質的に幸せなことなのだと、どれみちゃんたちは子どもなりに、自分の考えをしっかりと持った人間として分かったわけだ。
だから正式に魔女になるかという魅惑的なオファーを、4年かけて考え続け、到達した結論として辞退するわけだ。
あいこちゃんは、魔法の力で、離婚した両親が再び一緒になることを願っていたが、6年生の時、時が満ちてチャンスが来て、どれみたちや学友、その親たちの協力を得て、自分たちが人間として懸命に考え抜き、行動して、その願いは実現した。
はづきちゃんは、自分にとっての音楽の大切さに目覚めていくが、豊かだった家庭が破産。しかし先生の助言や皆の助けによって、専門の音楽教育への進学をあきらめない決断をする。
どれみちゃんは、魔法の力で、好きな人に告白できることを願っていたが、魔女にはならず、やがて老い、最後に死ぬからこそ尊い人間であり続けることを決断し、魔女になるというオファーを断る。
(ちょっとアニメシリーズとは違うところがある。アニメから小説化した本などからのものも入れて少し盛った。しかし要素としてはそういうものが入っている。アニメで倒産したのはあいこのお父さんの勤める会社。はづきのお父さんの経営会社が倒産するのは小説で、高校生の時。高校で、メンバーの一人だったおんぷちゃんが他所に引っ越して有名子役の仕事で活躍していたのが、週刊誌の起こした炎上により世間からバッシングを受けていることから救い出そうとするが・・・、というエピソードもある。
いずれにしてもフィクションだが、原作のないこのアニメの物語を書くに当たって、東映アニメーションの制作者たちは実際の小学生たちに取材を積んだり、自らの小学生時代の思い出を素材にストーリーを仕上げて行った)
さて、唱歌「港」と「どれみ」ちゃんのつながりだ。
彼女たちの通っている、海の遠くに見える小学校の名前が、「みそら」小学校というのである。
思い出して下さい。「港」の音程。どれみみそらそそ・・・。
そう。私の推論は、「おジャ魔女どれみ」は、「港」の音程からひとつのイマジネーションを得て作られたのだ!
おそらく「港」は、明治時代以来、日本の小学校教育の中で、音楽の時間に「ドレミ」を教える歌として親しまれてきたのではなかろうか?(そう考えると、はづきちゃんが、芸術家の家に生まれ、バイオリンを幼いときから習い、自分の出した結論として6年生の時、バイオリニストへの道を歩むことを覚悟することと符合している)。
「港」は多くのバージョンの替え歌が作られたということは、愛される歌だったということだ。しかもその替え歌は、大人からのお仕着せの「真面目」な内容ではなく、まさに子どもたち(それは、今は世を去った人や、おじいちゃんおばあちゃんが、かつてそうであった「かつての子どもたち」)の間から生まれた〝文化〟なのである。
そのような文化を担った「港」に触発されて、新しいアニメの文化が生まれた、と想像力が働く次第である。
児童文学、子どものための文化ということで、もう一つ、『おジャ魔女どれみ』に影響を与えたと私が気づいたことを記そう。
『おジャ魔女どれみ』を見ていた人は誰でも、知っているのだが、「魔女ガエル」(どれみのおっちゃおこちょいのメンター的な立場)という設定があり、その名前は「マジョリカ」。
これは確実に、往年の、NHKの名作人形劇『ひょっこりひょうたん島』のオマージュなのである!
これは下の、youtubeビデオの5分30秒から参照して頂きたい。
▲魔女のひとり、ペラの声を演じるのは、
テレビの草創期のNHKの秘蔵っ子、黒柳徹子。
アニメで子どもの声を女性が演じた第一号が黒柳さんだそうです。
明治の児童文学や唱歌・童謡から、アニメに引き継がれ、『ひょっこりひょうたん島』のような作品にも表現された、脈々と流れる日本の児童文化の暖かさや、人間愛や、謙遜な何ものかへの畏敬の念や、ほのぼのとした面白さが、
どれみちゃんという21世紀の始めを飾るアニメにまで伝わって来て、良質のものを生み出すイマジネーションとなっていることを私は発見したと思っている。
私はかつて、《「ぐりとぐら」に見る日本の幼児教育 ――ペスタロッチやフレーベルの生きた流れを脈々と伝えて》という一文を書いた。それはキリスト教の最も良質なところが、ペスタロッチやフレーベルという人物を通して、日本の幼児教育や初等教育に与えた深い影響を与えた史実を記しているのである(それは60年以上、保育園創設者・園長として幼児教育に携わってきた市川益子という人物について描く中に記した)。
実は私にとって、《「ぐりとぐら」に見る》に書いたペスタロッチやフレーベルから日本が受けた影響が、この《“魔法”と祈り》で指摘したい核心部分となります。FBノートに収蔵していますので、ぜひここから読んでください(クリック)。
そんな私としては、どれみちゃんのことをそのような目で見ざるを得ないわけなのだ。
さて、私はこの文に「“魔法”と祈りはどう同じでどう違うか」という題を付けた。
どれみちゃんたちは、結論として、死というものをも味わわないといけない人間として生き抜くことを決意する。
しかし、豊かな心のなかで、その決断に導いたのは魔法の世界にもほかならなかったのである。
それって、何かに似ている。祈りである(「♫小さい頃は神さまがいて、不思議に夢をかなえてくれた」と始まる、荒井由美の『やさしさに包まれたなら』を思い出す)。
『おジャ魔女どれみ』のある回に、こんな場面があって、とても印象に残っている。
それは、どれみたちが、異界の悪いものの手に陥って、永遠の眠りに凍結させられてしまうかもしれないという絶体絶命の危機の時、魔女の王国の女王様(そのキャラは、美智子・前妃殿下を彷彿とさせた)は神に祈るのだ。
女王様は、魔女の国では絶対の魔法力を持つが、その力さえ、どれみたちを救うに及ばない。その時に彼女は、自分たちが畏れるべき、自分たちを創った天の神に、どれみたちを救ってやって欲しい、と祈るのだ。それはとても自然な姿であった。
その祈ったこととの直接の因果関係としては明示されないが、「状況」が動いて、どれみたちは助かる。
その状況が動くことは、あいこの両親が再び一緒になる。いつも皆を励まし、まとめていたどれみが、小学校の卒業で、MAHO堂の仲間がばらばらになることに深く傷ついたその時に、そこに癒やしと成長の機会が訪れる、といったストーリーのなかに、しっかりと見ているとよく描かれている。
苦境を打開する道が開かれることは、自分たちが魔法を使うことによって何かを起こしたレベルを超えて、どれみたちを慈しんでやまない何者かが、彼女らを導いていると描かれていると、感じられてならない。
どれみたちを、女王様やマジョリカや、親たち、学校の先生たちは慈しんでやまない。しかしその背後にある慈しみ。
それが「魔法」という道具立てを使って描かれているのだが、その大きな姿を表さない中心的な正体は、女王様さえ、その方に向かって助けを祈った神の慈しみであると感じられてならないのだ(私はC.S.ルイスがファンタジーという新しいカテゴリーを創って、目に見える物質世界、そして目に見えざるものをも創造し救った神を『ナルニア国物語』に表現したことを想起してしまう)。
ナルニア国物語『ライオンと魔女』予告編
うちの娘たちは、小さい時から、食事の時の祈り、学校に出かける時に父親が守りを願って捧げる祈り、そして、教会学校や教会における神さまとの触れ合いを経験しながら成長した。
私が、失職して、家族で3年間住んだ奈良県の教会を離れ、兵庫県に帰って来て、そこに集うようになった今の教会は、子ども時代の良い総仕上げの機会を娘らに与えてくれたと20年近く経ったいま、感謝に思う。
その教会で歌う、子どもの賛美歌の一つ『イエス様のお気に入り』を初めて聞いた時はぶっとんだ!
だって、
♫ボクは、イエス様のおきにいりなのサ
なんていう歌詞なのだ!ポップなメロディに乗って。
多人数で歌ってるYouTobeはみつからなかったがこれ、
「イエスさまのお気に入り」という歌はこんな歌
私はぶっ飛んだ。なぜなら私は、儒教的感覚のクリスチャンとして生きてきたから、その感覚の違いは驚異だった。
自分こそがイエス様のお気に入りなんだ、しかも無条件で! なんと大胆不敵な歌詞なんだ。
しかし、今となってみると、そういう歌は、この試練と試行錯誤の20年をかけて、神が自分にしてくれたことの実態を、その気持を表すものとしてよく表現している(それはまた別の原稿で書きたい)。そういう自分自身の心境の変化があったのだ。
🔷「魔法アニメつながり」でおジャ魔女どれみと同時代、人気を二分した「カードキャプターさくら」の第3期テーマソング「プラチナ」について論じていますのでぜひお読みになってくださいネ▼