78年 「天国」に行けるだけでなく、今の社会で貢献したい
名士の、また裕福な家庭に生まれた青年が、その若き日、天幕伝道集会(空き地などに、大きなテントを張ってその中で賛美歌や説教など、伝道集会をする)に参加して、イエス様を救い主と信じ、教会に加わって熱心な教会生活を送っていた。(このNOTE記事の末尾に、元のクリスチャン新聞記事のスクラップを貼っています)
ところが、「父親の跡を継いでH信用組合長になり、世の中からチヤホヤされ出すと酒や煙草の手を出し、信仰がおかしくなった」とクリスチャン新聞は記す。
戦火をくぐり復員後、「実業、政治に深入りし、市会議員、議長をつとめる。そして突然、脳内出血で倒れたのは埼玉県信用金庫専務理事で、バリバリの働き盛りの時、昭和37年7月であった」と記す。
記事から考えさせられる2つの面
この人は埼玉県H市在住の、入*郡治さん。
クリスチャン新聞記事はその後、左半身不随になってしまった郡治さんが、再度キリストへの信仰を明確にしてから17年の生涯を送り、70歳で逝去したとき、その告別式は伝道集会のようであった、という記事である。
私、クリ時旅人は、この記事から2つのことを考えさせされた。
「実業」「政治」にネガティブ感情の教会?
1つは、(特に当時の)日本の教会の気風として、先ほどその言葉が出た「実業」とか「政治」というものに対し、ネガティブな感情、考え方を持っていて、それは良いとは言えないのではないか、ということだ。実業、政治に「深入りし」という書き方はないだろう。大事な仕事、務めであるのに。
何といっても神、救い主を信じることのすばらしさ
2つめは、神さまを真剣に信じることの素晴らしさ、またそれ以上に、信じた者をいつまでも見放さず、神の方から手を差し伸べてくださることの有り難さだ。
郡治さんが、53歳で半身不随の身となり70で亡くなるまでの生涯を平安で、「恵みと勝利に満ちたもの」として送り得ることを可能にした信仰の素晴らしさだ。
1)日本のキリスト教の公共性への取り組みの弱さ?
さて、1つめのことは、日本の教会の、政治・経済、事業といった公共性に関することが「弱い」という問題点だ。
良い記事であるのだが、その中に散見される公共性への軽視ないしは敵視の「発想」を指摘してみたい。
「世の中からチヤホヤされ出すと・・・信仰がおかしく」との表現
まず、「父親の跡を継いでH信用組合長になり、世の中からチヤホヤされ出すと・・・信仰がおかしく」なったという表現である。
「世の中の地位」を得るとか、そんなことは信仰者として「良くない」ことだ、ろくな事になりはしない、という価値観が透けて見える気がする。
また、酒、煙草をしないこと「が」がキリスト教なのか?という突っ込みを入れたくもなる。
立場にあって職務が果たされるようとの執り成しの祈りはされているのか
信用組合長や市議会議員は、世の中でなくてはならない働きであり仕事なのだから、「その立場にあって、よくその職務、使命が果たされるように」ということを、郡治さんのために日々祈ってあげる発想が牧師や教会にあったのだろうか?ということを考えざるを得ない。
また、そもそも、そういう立場に立っていく信仰者である郡治さん本人が、大きな大事な立場に立って、「そこ」でこそ神への信仰を働かせて、その仕事が社会において果たしている役割を追及し、その仕事を通して、多くの隣人にとって「より益となる」ことを実現していく、という発想があったのだろうかということだ。そんな祈りがあったのか、ということである。
教界に公共性の使命のために祈る気風が乏しいのでは
やはり日本の教界や、自分の所属する教会でそういう気風がなければ、そんな発想は、自分だけで出てくるものではないと思う。
「H信用組合長になって、クリスチャンとして祈って取り組み、ますます事業は発展し、尊敬され、より重んじられるようになっていった」というストーリーもあり得たはずなのだ。
しかし、そういうストーリーが「あり得る」ということすら、教界の側にそんなイメージがなく、社会的に上の立場に立てば信仰的に堕落する、ダメになる、という具合に、「知らず知らずのうちに」考えているという実情があるのではないだろうか。
そうだとすると郡治さんだけが急に、クリスチャンとして、神に祈りながら、より社会の役に立つH信用組合長の職務を全うしていこう、という発想が出てくることはあり得ないと思う。
実業界に入ると「神のプログラム」から外れたことになるのか
郡治さんが告別式における牧師の告別式説教も考えさせられる。
「人間は自分のプログラムを達成しようと努力します。しかし神さまは神さまのプログラムを持っており、郡治さんは、地位、名誉ができて交際が派手になり53歳の働き盛りに倒れて悔しい思いをしました。が、悔い改めることによって神さまのプログラムを受け入れ、平安な人生を送ることができました」
意識に昇ってこない盲点なのでは
実業界の仕事に就く、そこで立場を得るということが自体が、「神のプログラム」から外れたことになる、という意味なのかな、と感じさせてしまう言い方だと私は思う。
それは深いところに染みこんだ発想であるだけに、意識には昇ってこないし、だからこそ盲点になると思う。
日本の教界で起こっていることが全般にそうであるなら、「日本の教会は公共性に弱い」ということになるのは必然だと思う。
神から与えられた立場、そこでの使命という視点
郡治さん本人も、信仰の仲間も、郡治さんの勤めの本質は何なのか、どのような役割を世の中で果たし、何を追及していけばいいのか、また目の前にある課題についてどのように(文字通りの意味で)「祈って」いけばいいのか、という発想自体がなかったのではないかと思わされてしまう。
後の世代の我々への考えるケースとして、我々は「未踏の地」に
この郡治さんの「証し」の記事自体は素晴らしいものなのだが、だからこそ、後の世代の我々は、郡治さん世代の信仰の良きものを土台として頂きながら、なお「未踏の領域」にチャレンジしていかなければならないし、それこそが真の、郡治さん世代の人々の信仰、生きざまへのレスペクトとなる、と私は信じている。
*現在、クリスチャンしての事業を使命として考え研鑽し合い、クリスチャン政治家を招いて国家朝晩祈祷会なども開催している「CBMC(Connecting Business and Marketplace to Christ)」、また「インターナショナルVIPクラブ」といった、「超教派」で信徒中心の活動があることを付言しておく。
*また日本の福音派のクリスチャンが地域や教派を超えて、「公共性」の課題に取り組む橋頭堡を築いた日本キングス・ガーデン発足の経緯と、発足の意義について別のNOTEで書いています(キングス・ガーデンは、高齢者福祉の分野)▼
*また、福音派系の東京基督教大学が近年、公共性の問題に深く関心を寄せ『キリスト教の公共的使命 神の国と世界の回復』(稲垣久和編、教文館)という本を2018年に出していることも紹介しておきたい。
第3章に同大学学長の山口陽一氏が「日本キリスト教史におけるキリスト教の公共性」と題する章の中で、明治以来、きら星の如く存在したクリスチャンの事業家列伝を記している。▼
2)イエス様に救われていることはすばらしい!
さて、第2の点である。それは、イエス様を信じて救われる、救われていることの有り難さである。
働き盛りの53歳で脳内出血に倒れ、半身不随の身となって郡治さんは、自暴自棄となる。「会社へ行く」「死んでも言い」などと性格が荒れて、「暗い重苦しい毎日が続く」。
53歳で病に倒れ、仕事できず自暴自棄に
「暗い重苦しい毎日」と、私はクリスチャン新聞記事に記された通りをタイピングしながら、「その毎日とは何日くらいの期間だったのだろうか」と思った。この「毎日」という一言に、当時の記者は深いものを込めていることだなぁと思わされた(私自身もそういう風にクリスチャン新聞の記事を書いていたから)。
イエス様が「もう一度赦してあげる」と言ってくれ、妻に詫びる
記事をよく読めば分かるように、それから1か月経ったある日。妻のてるさんが「主にすがる我に恐れはなし」という聖歌を口ずさみながら洗濯していると郡治さんが「左手足が利かない体を引きずって」来て、「わがままいって悪かったね」と、てるさんに謝った。
そんなことがあるものだろうか? しかしクリスチャン新聞は事実を淡々と記しているのだ。
いま語りかけてくださるイエス様
郡治さんに何が起こったのか?
てるさんに、郡治さんは感動さめやらない表情で言ったのだろう。「いま、白い衣を着たイエス様がみえて(おいでになって、という意味だろうか)、『今からでもよい。もう一度赦してあげる』と言われた」。
さらに聖書・黙示録2章4、5節に記されている、「あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい」という「みことば」が自然に心に思い浮かび、それが自分に対して語られているイエス様からのメッセージなのだということが分かったのであった。
「いま・・・言われた」! いま、私に語りかけてくださるキリスト、神を、思いも寄らぬその時に郡治さんは「体験」したのである。
その語りかけは「もう一度赦してあげる」。これが、郡治さんにとって最も神さまの愛の「み思い」が伝わることばであったのだろう。だから神は、そのように姿を現し、語りかけられた。
その若き日に、純真に信じ、そのことへの感謝に生きた、イエス様の十字架の身代わりによる赦し、そこから来る喜び。そんな救いに郡治さんは帰ったのであった。
「十字架のみもとに荷物を下ろした」という賛美歌
そしてその場で夫婦2人して、「主にすがる我に」と賛美歌を「鼻水と涙で共々に」歌ったのであった。
二人が歌った賛美歌はこれである。信仰の内面をよく表した、特に福音派の系統ではよく知られた歌である。
その時の郡治さんの変わりようを直接目撃した三男の治さんは、「お父さんどうしたの?」とびっくりし、「神さまが生きているんだね」と救われてしまった。また、「次々と他の息子たちも救われていった」。
そして、それから17年の月日を、夫婦で支え合いながら郡治さんは「静かで、恵みと勝利に満ちた」生涯を送った。
亡くなる3年前、病状が悪くなった際、「神さまのために何かしたい。神の御子イエス・キリストを信じることの喜びを皆さんにお伝えしたい」と遺志を語り、自分の葬儀では「神のみことばである聖書をひとりでも多くの方々にお配りして読んでいただきたい」と言い残していた。
実際、そのように行われた。告別式は「入*家・Hキリスト教会合同葬」として行われ、牧師がその告別式説教の中で、キリストによる救いと、死をも超克する希望を伝えた。
市長や、埼玉県信用金庫会長らも弔辞を述べた。
クリスチャン新聞記事スクラップ
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