GENJI*REDISCOVERED 今日の源氏物語 第10帖『賢木』
旧暦 九月 七日 は、この前の「半月」でした。
『 賢木 』帖 有名な「野々宮」での一夜の段です。
『葵』帖で生霊となって、光源氏 の 嫡妻・葵上を 取り殺した(と、当人たちも確信。何処かからの 噂も出ている、)六条御息所 が、居づらい 都 から、娘が「斎宮」として向かう「伊勢」の地に、付き添って 旅立つ数日前、「やはり会っておかなくては。」と 光源氏、伊勢斎宮 の潔斎所「野々宮」を訪ねます。
『 源氏物語 』では、珍しく「九月七日ばかりなれば 」と、日付 のある書き出しで始まります。
都の 西の外れに設けられている「野々宮」は、斎宮の 潔斎のための-「仮設」の宮殿。「神域」の 鳥居も 舎屋も 樹皮 が付いたままの柱、白木の板材で建てられています。とり巻く 垣根も、伐採した枝分かれもそのままに枝を束ね並べた簡素な「小柴垣」です。
秋の夕方、野々宮 に着いた 光源氏は、その「黒木の鳥居」や簡素な建物群、「神域」の厳かさを目にし、豊かな風情、趣 深さを「あはれ」と感じます。
斎宮 である姫とは別の殿舎-御息所 の居る「北対」を訪ねる 光源氏。
六条御息所 は 躊躇いながらも、光源氏 の訪問・挨拶を受け入れます。
「はなやかに さしいでて」来る『夕月夜』に映えて、光源氏 の立ち居振る舞いの美しさは「似るものの無い」すばらしさです。
あの一件 以来、お互い「もう二度と会えない」と思って来ていましたが、
伊勢 への下向、また会えるかどうか…という状況、話 の キッカケに 光源氏は、途中で折り取ってきた「榊」の枝を、御簾 の下から 御息所 に差出します。
この場面は『賢木』帖を 代表するシーン として、古来多く「絵」に描かれてきました。「黒木の鳥居」「小柴垣」「月」「秋の野」そして「御簾」に「榊」の 組み合わせ だけで、光源氏 や 六条御息所、従者や神官ら を描かずとも、もう「『野々宮』の図」と認識、「『賢木』帖 の絵」だと理解される「画題」となりました。
が、江戸時代 の「源氏絵」には、ここに出ている「月」が「下弦の月」であったり「三日月」や「満月」だったりの=間違い も見つけられます。
「太陰暦」で生きていた「江戸」時代の人でさえ…なのです。(すなわち、物語冒頭の「九月七日である」(=「物語」)を読んでないで絵を描いているという事も起きているという事です。)(そして、現代でも、その引き写しが続いていたり。です。)
原文の『夕月夜』も 地雷的な、難解ワード なのですが、そうとさえ認識されずに読まれています。 3度「訳」をした与謝野晶子は、この「夕月夜」というワードを完全に無視…と言うより、割愛しています。-その事が自分の思う「難題ワード」である証拠の一つと思っています。 あまたある「現代語訳」で(全てを拝読してはいませんが)この場面、「夕方の月が美しく出て来た」様に「訳」されることが多くて、その結果、読んでいる 現代人は夕方(東から)「満月」の昇ってくる=月の出 を思い描いていたりします。
「太陰暦」で過ごしていない 現代人は「「九月七日」の月は「上弦の半月」である。」という事が 体験的に判っていません。
そう、「半月」は、夕方-日没時には、ちょうど「南中」=真南の(一番)高い位置に輝いています。
この「夕月夜」問題、見事に、いとも簡単に(さえ見える-「コロンブスの卵」的に)解決している!のが、『 角田光代 訳 源氏物語 』です。角田女史(たった一言の挿入で、)本当にお見事です。
(ご興味もって頂いた方々は、ぜひ、『角田訳』ご確認ください。)
月齢7日の「上弦の月」は、そして「真夜中」0時頃に 西 に沈みます。
光源氏 が、御簾 を引き被るようにして身を入れて「(下)長押」にもたれ掛かって、来し方のこと、もう会えなくなるという状況、これから先…のどうなるであろうか、等々の 悩ましさで 胸を詰まらせながら、「恨み言」を
口にして、それによって 恨み を解いている頃に、月 は 消えます。
この後、夜明け までは5~6時間。光源氏 が、だんだんと 明けていく空に、体裁 を気にしつつ帰っていくまでの時間に、御息所 と、どういう事があったかは 書かれていません。
推定復元版『源氏物語絵巻』より、『賢木』之壱「野々宮」図
後世の(間違っていたりもある)「源氏絵」から、ではなく、12世紀の
現『国宝』本に基づいての推定復元。部分部分の解説と「全図」よろしく
ご覧ください。
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