GENJI*REDISCOVERED  『今日の源氏物語』 『源氏物語絵巻』10帖「賢木」1

画像1 『賢木』帖1-1「野々宮」 伊勢に向かう「斎宮」の潔斎処『野々宮』は、都の西外れに建てられた仮設社殿。「小柴垣」に囲われ「黒木の鳥居」が立ち、「黒木」=樹皮を残した柱に板葺きの建物(群)が、外界とは違う『神域』の神々しさに充ちている。光源氏が到着した時はまだ夕方であったが「夕月夜はなやかにさし出でて」来て、辺りが暗くなってからを「絵」描いている。南中の「月」のだが、高さは「絵の天地」に引下ろして描いている。一枚に宮の殿舎の配置と月、時間経過まで入れ込むには、国宝本に倣った大胆な構図構成となる。
画像2 野々宮の光景描写に出てくる「ひやきや かすかに ひかりて」は火焚屋とも漢字がふられる。この「屋」は、文字通り「火」を管理=終日「火種」を絶やさず燃している所で、食事の用意もここで行われる=仮設御殿の「キッチンテント」の事です。がしかし、ここまでの解明・解説をしている参考書はほぼ見かけない。「屋」が「かすかに光りて」は、その建物の戸口から中の光が漏れている…と思われがちだが、布製の「屋」自体がぼんやり光っている光景を紫式部は書いているのです。『年中行事絵巻』の楽人の幕舎がここでは炊事場として使われています。
画像3 「火焚屋」が「炊事用テント」という発見は、``Seesaaブログ``の『ラフェットの備忘録』さんの『枕草子』の調査、ご研究によって確証を得た事なのです。『源氏』の時代の事をより知る資料として『枕草子』は無くてはならない物です。そして『ラフェット』さんのブログで、萩谷朴教授の『枕草子解環』という解説書、枕草子「解読」にも出会えました。絵は「神域」である『野々宮』の各建物には、張られてあっただろう「注連縄」と「紙垂」。左の紅白の綱は、「北対」の前「斎宮寝殿」との中庭に建てられた「火焚屋」の張綱です。
画像4 「北対」の中、六条御息所の侍女。黄色の「忌衣」または「ちはや」を着けている姿です。訪ねて来た光源氏と、奥に隠れている御息所の取次ぎ役。光源氏は「せっかく来たのに「簀子」にさえ案内しない」=「上がって良いと言わない」と最初から恨み言を言っています。潔斎処の調度は、清廉なもの、簡素なものだったと思われます。風雅な六畳御息所もこの野々宮のご在所では、華やかさを抑えた設えで居たと考えられます。それがより一層の「あはれ」と光源氏に映ります。
画像5 直接、御息所の「生霊」と対峙した光源氏。『夕顔』帖の「廃院」での「夕顔」を取り殺した「なぜ私でなくこんな下級の女と」と言った女の幻も、状況的にこの御息所の情念か…と思われなくもない…のに。こうして来て話してみると、それらをも打ち消す素晴らしさのある(元)愛人の魅力に勝てない、このまま別れるには惜しいと思ってしまう光源氏です。会う事を避けていた詫び…言い訳のキッカケに、折り取って来た「榊」を「御簾」の下から差し入れてプレゼントする光源氏です。
画像6 光源氏の父『桐壺』帝代の「先の東宮であった 六条御息所の 夫君。桐壺帝とは 兄弟だったと推測されている。「先帝」の子 だが 桐壺帝と 同じ母からの兄弟かどうかは判らない。『物語』の現「東宮」の母 弘徽殿女御はヒールとして書かれている。わが孫を早く将来の 帝 に奉りたい 右大臣=弘徽殿女御の父 一派の 謀 で亡くなってしまったと考えることも可能な相関関係がある。その「先の東宮」妃として嫁いだ、今の呼び名「六条御息所」の里方の事は書かれていない。住まいの「六条・万里小路」が生家であったとも考えられる。
画像7 教養深く優れた感性を持ち、文字も美しい。当時の憧れを見事に備えた上に「先の東宮」の未亡人。至上の関係だった…のが、光源氏の若さ故続かず 自尊心を傷つけられてしまった 御息所、自分でも制御できない 嫉妬 に「生霊」にまでなってしまって。「伊勢」への移住で、全てを仕切り直したい 御息所にとって、この 光源氏の慰問はまたしても 心を乱す事であったでしょう。月光の移ろいに沿わせて書かれたこの場面、秋(原罪の「飽き」)という事も加わって より悲さを増しています。  ご支援頂いて、次の『全図』どうぞご覧ください。

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