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1971年12月14日は典型的な日本の晴れた寒い日だった。この日に関内の東京カテドラルで結婚式をあげたのである。家人の場合は金沢でミッションスクールに通っていたりしたが、私の場合は心音勝負坂と言うわけだから、宗教戦争になりそうだね。
1981年に東京に戻ってきてから、ずっと2眼レフで東京の街を撮影していた。この作品は2眼レフワークショップに掲載されている。持って歩いた。カメラはローライフレックスかミノルタオートコードかあるいはオリンパスフレックスかもしれないが、映りは皆同じものだから、カメラブランドがどうこうと言うまでのこともない。
東京の時間経過を50年以上の長さで観察していて、面白いと思うのは、すぐなくなってしまうであろうと予想している。風景が想像の外長いこと生存していたり、あるいはその逆で、これはすぐ失われていく風景ではなくて、ずっと留まっていると思っている風景が、案外すぐなくなってしまうという皮肉なポイントがあるのだ。
1966年日大写真学科の1年生の時にニコンエフにニッコール2.1センチのレンズをミラーアップしてノーファインダーで東京を斜めに横切ると言う撮影方法はウィリアムクラインの写真集から勉強したものである。
コカコーラを初めて口にしたのは中学生の頃である。今ではこんな事はないと思うが私は中学の理科の梅田先生と言うのに気に入られて彼の高田の馬場のアパートに泊まりがけで遊びに行ったりしていた。
1960年代の初めごろの東京の光景を撮影した春日さんの仕事を私は非常に尊敬しているのである。まとまった写真集がなかったので残念がっていたが10年ほど前に40年前の東京と言うちょっとピントのずれた方向のタイトルをつけた写真集が登場した。編集をした人がそれ方面の編集関係の人で噂の真相とかのライターさんらしいのでそこら辺は仕方がない。しかし春日さんの当時の仕事の全貌がわかると言う意味で重要な写真集である。
はごろもシーチキン食堂に起用された富士見坂。11月7日(日)のブラパチワークショップはその現場を現場検証!今年最後のブラぱちです。
佃の仕事場で毎日6時間はネガフィルムのセレクションをしているのである。これは1967年7月17日に撮影された銀座のワンショットである。一昨年日本カメラで連載していたToday Tokyo 1964/2020と言うのは3年間のシリーズの予定であったが編集部の都合で1年間カットされて結局2年間24回の連載になった。
1966年ごろに撮影された羽田空港のエントランスである。ウィリアムクラインが初めて1950年代の終わりに写真集東京の撮影で来日した時羽田空港からタラップで降りてきて首にはニコンS3にニッコール2.8センチがぶら下がっていた。ウィリアムクラインの東京の第一印象は東京は生花みたいなところだな。
東京の半世紀以上前の深いところに潜っていてその頃の写真をサルベージするといろいろ面白いことがある。それは私が酒を飲み始めた頃とほぼ同じ時代なのである。お酒にはファーストクラスとセカンドクラスがあって、キリンビールが170円と言うのはこれは大瓶のことである。当時は大瓶と小瓶だけでミドルサイズと言うのはなかった。
28ミリと言う広角レンズはライカと組み合わせるとなかなか撮影範囲が広くなる。国際的に著名な写真家リーフリードランダーは彼の写真家としてのキャリアがスタートした時から35ミリレンズしか使わない人と言うので有名であった。そのリーフリードランダーからこのレンズを探してくれと頼まれたのは30年位前の話だ。
ネットオークションで手に入れた写真なのである。同じショットはないがなかなか丁寧に撮影されていて同一人物の撮影によるものである事はほぼ間違いがない。1つのグループが16枚でそれが4つあった。それぞれ封筒に外国人の文字で走り書きがしてあった。内容はストリートシーンとか路上の子供たちとか言うような大して意味のないものではあるのだがそれが本人による記入であるのかどうかもわからない。
おそらく1966年に撮影された銀座の夜景である。左側に読売新聞社が見えて右側にナショナルのエキセントリックな広告タワーが見える。そこから光が放射している。稲垣足穂が言うところの6月の夜の都会の空である。カメラはニコンエフにミラーアップして使うニッコール2.1センチだと思う。
ニューヨークのソーホーにうまいパン屋があった。今でもそのパン屋はある。緑色に塗られたペンキの小さな店である。そこのパンは非常にうまい。双方に住んでいた時に近くであったのでよく買いに行った。スーパーマーケットのパンが食べられなくなると言うようなパンなのである。でも大変不幸なのはうまいパンと言うのは慣れてしまうと普通のパンになってしまう。ありがたさがなくなってしまうわけである。