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アパートメントから歩いて行けるところに、典型的なゴシックとか、バロックの教会が点在していると言うのはある意味で、文化財の中に住んでいるようなわけで大変貴重な体験である。
北京とつながりができたのは、ニフティアドレス、中国の大きな通信社の報道写真コンテストの審査委員長をやったことにある。その時北京でいろいろ通訳をしてくれた人が友人になっていろいろなことを教えてもらったのである。
パノラマ写真集の正しい鑑賞方法と言うのを発見したのである。画面がアスペクトレシオで横に広いから、まず視神経を左右に動かす必要がある。
著名な映画監督のセルフポートレートと言うのはなかなか興味がある。世界の図監督が使っていたカメラがライカではなくコンタックスであったと言うところがまず非常な宣伝効果を上げている。
しばらく前の私のウィーンを表現するときのエッセイの決まり文句として、路面電車が終点でぐるりとループの線路でまたこっちに戻ってくると、その先にはウィーンの森が広がっているというのがある。
1683年にできたと言うふうに、エントランスにちゃんと断りが気がついている。旧市街の中心部にあるエステルハーツという名前のワイン居酒屋である。
ヨーロッパを動いていて、何の不思議もないと感じる事は、どこの大都会でもどこの村でも集落の中心には広場があって、その広場の中心をなしているのは協会なのである。こんな当たり前なことが当たり前として認識されていることが不思議なのである。
ウィーンに到着した。1913年の5月の半ばごろから数週間滞在したのが、ウィーンの中心から、かなり西に離れた場所にあるこのアパートメントであった。
ウィーンに暮らしていた時に、本編の映画を2つ手伝ったことがあって、それが面白かった。これなどはまさにニュージャーマンシネマのイントロダクションのショットみたいな感じなのだ。
オーストリアのウィーンも、他のヨーロッパの街と同じようにキッズのグラフィティ、
写真家のKawada Kikujiさんと1960年代半ばにヨーロッパでの巡回写真展の打ち合わせでお宅にお伺いしていろいろな話をしたのである。
^_^スナップシューティング、謎と言って長年待ちを撮影しているのであるが見ているようで意外と見ていないなと思ったのはこの光景である。ウィーンの中心部のさらに中心部のツーリストエリアにあたるのだが、この紙を張り巡らした巨大なディスプレイ空間と言うのはウィーンの大手の下着屋さんのお店なのである。
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歳をとってきて面白いと思うのはある。1つの建物なり現象なりランドマークなりを自分の記憶の記録の体積として認識できるところにある。これは長生きの楽しみと言うことになるのであろう。