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この写真集は最初のアイディアでは1000ページにする予定だった。それで実際に本がどのぐらい熱く(厚く)なるかと言うのを業界用語で束見本と言うのであるがそれを作ってもらったら重さが5キロもあって持ち上がらないことがわかった。それで半分の500ページにしたのである。
3月から5月にかけて私のギャラリーバウハウスでの何度目かの写真展を開催するのである。ギャラリーオーナーの小瀧さんが、一昨年はウィーンでコロナがスタートしたときにギリギリでwinから逃げてきたと言う感じで今回の小瀧さんの写真展ウィーン旅の憂鬱が展開しているわけであるがその後に私がバトンタッチしてウィーンとライカの日々と言うタイトルで3月から5月までウィーンをテーマの写真展を展開する。
アムステルダムである。15年位前にKLMをよく使っていたのだ。そうなるとベースはアムステルダムになってそこからパリに行ったりプラハに行ったりギリシャに行ったりウィーンに行ったりリスボンに行ったりしたのだ。当時の飛行機はボーイング747の200と言うタイプで後半分はカーゴになっていた。
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プラハの街を歩いていて日本映画のポスターが目に入ってそこの有名な映画監督の名前がOZUなのである。そこに写っている女性が原節子と言うわけだ。
やはりエルンストライツよりもカールツアイスだと思う。ライカ人類が過去70年以上いつも思っていたコンプレックスというのが、自分の使っているエルンストライツのレンズはカールツアイスブランドではないと言う事だった。
私のヨーロッパの地図の中にはスイスと言う国が存在しない。人生で今まで3回しか入国したことがないのがスイスである。
Sudekが暮らしたガーデンハウスには小さな庭がついていてそれが折々の光を見せているのが素晴らしい。その庭は写真家が管理している庭なのであるがそれ以外に彼が非常に興味を持って撮影した庭が1連のマジックガーデンシリーズである。
大学生の頃から東松さんの大ファンであった。自分のポートフォリオを持って新宿3丁目の事務所に押し掛けて迷惑をかけたこともあるが若気の至りと言うやつだ。その関係で1976年にヨーロッパのドイツ語圏を巡回した現代日本写真家展示会に東松さんを中心にして22人の当時の現代写真家で写真集を展開することができた。一番若かったのが田村とか十文字の20歳後半と言う連中で私もそこに参加させてもらったのであるが、今ではみんな後期高齢者である。時間の流れって面白いな。
中野駅北口のブロードウェイをちょっと行ってすぐ左に曲がった左側にクラシックと言う喫茶店があった。ボロボロの木造2階建てでいつもクラシック音楽がかかっていたけど急な階段を上って2階に上がるのは大学1年の時の私でも結構険呑な階段であった。
私は東松照明さんの追っかけ少年であった。新宿3丁目のビルに自分の作品を持って批評をお願いしに行ったのだから大した度胸である。その時に雑誌現代の目で編集部のスタッフだった中平卓馬が来ていたので彼にも私の作品を見てもらった。私は東松照明さんに中平さんを紹介してもらったわけだからこれは、正規の人脈と言うわけだがその後私が中平さんにお目にかかったのは彼が記憶を失った後だからこれも正しい交際の仕方だと思う。
仕事の関係で世界中の集合住宅を見た経験があるからそれが本能的に私に染み付いていてヘンテコリンな集合住宅にいつも興味がある。今年の春に本格的に取り壊しが決まった銀座8丁目の中銀カプセルタワーなどもそれだ。黒川紀章さんの建築が好きなので私もこのでこぼこビルに数年間仕事場として使っていた。ルコルビジェの集合住宅なども世界のあっちこっちで見た経験がある。
本郷の喫茶店ルオーの創業は1952年だと言う。亡くなった写真家の須田さんと1967年ごろにこの喫茶店でよくセイロン風カレーライスを食べたのである。ところがこの店は1980年にかつての東大赤門前から現在の東大正門前に移転したそうだ。つまり今のポイントに移転してからすでに42年経過している。その前の古いほうの店も加えると私は55年ご無沙汰しているわけだ。
レンズシャッター方式の一眼レフと言うのはなかなか1960年代には流行したもののようである。ただしその頃の私はカメラに対する目が開けていなかったから一眼レフはニコンエフだけそしてレンジファインダはライカM型と言うふうにしか世界を見ていなかった。