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私が「毒親」の記事を書く理由

最近ではめっきり数は減ってしまっていましたが、もともとnoteをはじめるきっかけは「毒親」に関する記事を書くためでした。

今の私の状態としてはいわゆる「解毒」された状態ではないものの、自分の状態、過去を掴んで理解を深めていくなかで、徐々に生きやすさを得てきているかなという段階です。

今日のこの記事は、私が「毒親」の記事を書いてきた理由と、これからもきっと書き続ける理由について。

「人を癒したいのは自分を癒したいから」

先日、どなたが呟いたのかは忘れてしまったのですが、「人を救いたいのは自分が救われたいから」という内容のツイートがタイムラインに流れてきました。

伝えたい内容と異なる受け取り方をしてしまっているかもしれませんが、本当にその通りだなと。

私も「誰か」の助けになれば、と思い今も書いています。
記事を残し、自分の経験で誰かがその状況から脱するヒントとなれば、と。

ただ、同時にこれは自分を癒す作業でもあります。
この「誰か」には「私」も含まれるのです。
以前の記事で述べた通りに「語る」ことはすなわち自分を癒すことだからです。
まずは自分を救いたいから書いています

私は傷ついています。
だから書くことで思考を、感情を整理することは必要だし、これからも自分の傷と向き合うために書き続けるでしょう。

ただ、どれだけ考えても、書いても、もう過去の自分は救えない。
救えるのはこれからの自分と、似た経験を持つ他者。

顔も見たことのない、きっとこの先会うこともない他者を救いたいという気持ちは、救うことのできない過去の自分と他者を重ねてしまっている部分もあるのではないでしょうか。

毒親に関する書籍のあとがきで数多く見かけられたのは「誰かのためになれば」という内容の文言。

きっと傷に向き合うなかで、救えなかった過去の自分を救うような気持ちで語りは手渡される。

ここで注意しなければならないのは、自分と他者の境界線が曖昧になってしまうこと。

救えなかった過去の自分を無意識に重ね、「人のために私はやっているんだ!解毒された私のアドバイスを聞け!」という意識が強くなってしまうと、それは途端に毒にもなり得ます。

誰かを救いたいと思う心は、自分を救いたいという意識が根底にあること。
過去の救えない自分に目を向けるのではなく、これからの自分を救うこと。

これらを忘れずに傷に向き合っていきたいとの自戒の念を込めて。

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松岡ふぶき
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