【公演レビュー】2023年2月18日/米田覚士指揮、ユニコーン・シンフォニー・オーケストラ
若い指揮者と楽団が示した先人への敬意
オーケストラのプロフィールは下記リンク参照
https://twitter.com/unicornsymphony
~プログラム~
橋本國彦:交響曲第1番(1940)
-休憩20分-
ラヴェル:ラ・ヴァルス(1920)
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」(1919年版組曲)
1940年に「皇紀2600年奉祝曲」の1つとして創られた橋本國彦の交響曲第1番。楽団員の友人は「エルガーを想起する」と話した。
確かに第1楽章序盤の雰囲気はエルガーの序曲「南国にて」あたりと若干重なる。格調高さをまといながらどこか地中海風の主題が弦で奏でられ、そこに管が乗って響きの濃さが増す。
橋本國彦がヴァイオリニスト出身のためか、第1楽章は常に弦主導の品のある進行。一方でフルートのメロディも美しい。
ところが、中盤唐突に軍楽マーチ調の楽想が挟まる。「奉祝曲」への目配せなのか、時局を意識したのかは不明だが、構成を大きく傷つけるもの。
楽章終盤は最初の主題がやはり弦から積み重なり、ブルックナー調の登攀を響かせ、穏やかに収束する。ここが見事なだけに先述の逸脱が惜しい。
第2楽章は東洋的色彩を放つラヴェルのボレロ風。ここは管打の扱いが面白く、和太鼓の使い方など耳に残る。
変奏曲とフーガの実質2部構成の第3楽章。まず伊沢修二(1851-1917)の唱歌「紀元節」(1888)を用いた8つの変奏。チャイコフスキーの組曲第3番のフィナーレ「主題と変奏」に似た印象の展開。切れ目なく同じく「紀元節」を使ったフーガが続く。第1楽章の主題はこれへの伏線だとようやく分かる。ところどころ「君が代」の香りを感じたが、作品成立背景を知っているのでそう聴こえたのかも。
全体として用意周到に書かれた力作で、単なるプロパガンダ音楽以上の内容だが、主題でフランク的循環を試みた割には、統一感やそれが見えた時にピピっとくる魅力はもう一つ。
指揮者とオーケストラは作品と真摯に向き合い、良いところが聴き手に届くよう必要なバランス管理を講じ、楽想に見合うメリハリも与えていた。
若い音楽家たちにとって日本の近代史、クラシック音楽受容過程の一コマに向き合った貴重な経験となったはず。
フルート、ホルン、チェロの奏者はとりわけ好調。
実はこの作品、前記3パートの負担重量が重い作品。1940年の初演はどう乗り切ったのだろう。当時ワグネルの大先輩である吉田雅夫(フルート)は新交響楽団入団前だが、特別楽団に動員されたかもしれない。
知的刺激のあるプログラムとしっかりした演奏
後半、ともに橋本作品の約20年前に書かれたラヴェル、ストラヴィンスキーの傑作を聴き、日本の作曲家にこの2人が及ぼした影響が大きい事実を改めて感じた。
例えばラ・ヴァルスのリズムと色彩の出入り、「火の鳥」のフィナーレの後半で弦からひたひたとクライマックスに至るところなど、前半の作品への連続性が頭をよぎった。
楽団員は当然ながら前半より楽しそうでハキハキしたシャープな響きを鳴らした。指揮者もポイントの手綱は締めつつ、オーケストラの「ノリ」を生かすコントロールでまとめた。フルート、チェロのトップ奏者は後半もカラフルなサウンド。
先人の遺産を取り上げ、同時代の世界の先端と重ねて聴けるプログラムで充実の内容だった。
「題名のない音楽会」の思い出
橋本國彦は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の教官として矢代秋雄、團伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎などを教えた。
後年、芥川也寸志と黛敏郎はともに自身が司会のテレビ番組で戦後忘れ去られた師の作品を紹介した。特に黛敏郎は長年司会を務めたテレビ朝日系「題名のない音楽会」で複数回取り上げている。おかげでクラシック音楽を聴き始めて間もない時期に交響曲第1番の第2楽章を抜粋ながら聴けた。
そして筆者に深く刻まれている記憶は、黛敏郎が亡くなる少し前に「わが青春の橋本國彦」と題し、1エピソードを師へ捧げたこと。どれほどモダンで素敵な作曲家だったかを語るその眼はかすかに潤んでいた。
あれから四半世紀、ようやく作品全体を生で聴けて本当に良かった。
※文中敬称略