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からっぽの中身を満たすものは

空っぽの容器を渡されて、あなたの好きに使ってください、と言われたらどうしますか。
真っ白のものを染めるとしたら、何色を選ぶでしょうか。

筆ペンで有名な呉竹という文具メーカーから、「からっぽペン」という製品が出ています。
真っ白な、中身の入っていないサインペンです。
ずっと気になっていたそれを、ようやく購入しました。

インク沼、というものをご存知でしょうか。
“沼”というのはスラング表現ですが、インクにはまっているインクオタクの人たちが、自分は「インク沼にはまっている」(=沼に落ちたから抜けられない)という言い方をします。
わたしは近年までこの沼の存在に気が付かなかったのですが、一度知ってしまうと、なるほどこの沼も深そうだ、と思いました。

わたしは「色とりどりの何か」にとても弱くて、幼き頃は絵の具や色鉛筆、折り紙でしたが、今はそれが着物やコスメ(ロシアのヤバい粉)に向かっています。
そしてインクは、また違った魅力を持っています。

インク。
それは主に、つけペンや万年筆に使われる、瓶に入った筆記用の液体です。
つけペンも万年筆も、手間がかかるという点であまり一般的ではなく、年毎に「マニア向け」になっていくような筆記具です。万年筆のほうは比較的手軽なものが出てはいますが、瓶に入ったインクを使うのは、自分でインクを詰め替えるタイプの手のかかるものです。
手間がかかればこそ愛着も湧きますが、手間がかかるからこそ好事家向けなわけです。

いろんな色を使いたいなら、インクでなく色ペンを使えばいいじゃないか。きれいなペンはたくさん出ているのだから。
そう思う人もいるでしょう。
でも違うんです。
インクの魅力は、書いた瞬間の色だけではありません。

まずは入れ物。
たいていガラス瓶に入っていて、蓋がついています。メーカーによって瓶の形状は様々で、しゅっとした細身のものもあれば、底面が広くどっしりした形のものもあります。特につけペン用のインクは、テーブルに置いて書きながらペンを浸すため、安定性のある重めの作りになっています。
この、ガラス瓶のフォルム。つるりと滑らかな、わずかに丸みを帯びたシルエット。
そしてガラスの厚みを通して見える、インクの色。
濃縮された色は、ほとんど黒く見えるのに、ガラス瓶を通して光を当てると、本来の色が煌めきます。その光の鮮やかさに目を奪われます。黒く光る液体にペン先を浸して、白い紙につけた途端現れる色は、どの瞬間を切り取っても印象的です。

インクは、容器の佇まいから紙に落とされる瞬間まで、心をときめかせるものなのです。

普段インクを使わないとわからないのですが、今インクには実に様々な色味があります。
わたしは最近になって少し検索してみた程度ですが、それでもそのバリエーションの広さに慄きました。
色鉛筆のように色とりどりで、中には日本の伝統色のシリーズもあれば、詩的な名前についたものもあります。好みのインクを調合できるサービスもあって、わたしも以前、自分好みの青緑を作りました。

わたしの手元には、3種類のインクがありました。
ひとつはカキモリというお店で調合した、自分だけの青緑色。
わたしの青緑へのこだわりは強くて、好みの色に出会えないがために青緑色の製品をあまり持っていない程です。
あとふたつはイギリスで買ったもので、ヴァイオレットとティールです。
このお店はオックスフォードの路地を入っていったところにある渋い文房具屋さんで、万年筆やつけペン、ガラスペン、羽ペンなどが所狭しと並んでおり、インクもシーリングワックスも素敵なカードやノートも売っているところです。オックスフォードに行くたびに眺めていて、ようやく買ったのがこの2色のインクでした。仕舞い込んですっかり忘れていましたが、問題なく使えています。

この3種類のインク、本当ならガラスペンやつけペンに使おうと思っていたのです。
が、やっぱりそれはめんどくさくて、そしてそこまでしてカードを書くような用事もなかなかなくて、仕舞い込んだままになっていました。

ところが、からっぽペンですよ。

一時期話題になったこのペンを、ようやく購入しました。
中の白いフィルターをインク瓶につけて、色を吸わせます。それをペン軸に入れると、それで完成。
たったこれだけ。

これだけのことで、これまで瓶のなかに大切に保管されていた美しい色が、いつでも使えるようになるのです。

書き心地良く、手軽で、それでいてノートに書かれた文字は、わたしを魅了してやまない独特の色味を帯びていました。
こんなすてきな色を、自らの手で文字として形作ることができるのか。
そんな喜びを感じました。

今までこんな美しい色を、瓶の中に閉じ込めておいて、申し訳なくなります。
これからは、いつでもこの色で文字を紡いでいけます。


からっぽの、まっしろい、文字の書けないペン。
それだけでは、一体どんな価値がわからないペンです。
でもこのペンは、わたしの目を楽しませ、心を明るくしてくれる、そんな可能性を秘めた真っ白さなのでした。

あなたの好きな色はなんでしょうか。
あなただけの色を使えるとしたら、使ってみたいと思いませんか?

年末年始は手書きの機会が増える時期です。
ぜひ大切な色を探し出して、文字として、絵として、紙の上に乗せてみてください。


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