「本を読んでいる人の姿は美しい。」
「それはほとんど祈りの姿勢のようだ。」
と著者の阿久津氏は書いている。
本を読む人は、何かを求めている。
一心不乱に、あるいは細切れの思考の中に、何かを求めている。
祈るような気持ちを持って。
阿久津隆著『本の読める場所を求めて』(朝日出版社、2020)
初めから終わりまで、「わかる」しかない本も珍しい。
この本は、その珍しい本の1冊だった。
あまりにも「わかる」。
本を読みたいのに、本を読める場所は限りなく少ない。
わたしは小さい頃から本の虫だった。
いまは「歩きスマホはやめましょう」なんて、駅でも街中でも言われるけれど、わたしは小学生のころから「歩き読書」をしてきたし、注意されたことなんて一度もなかった。
にわか「歩きスマホ族」と一緒にされては困る。
こちとら30年選手である。
電車の中だろうとホームだろうと、信号のある道だろうと、坂だろうと階段だろうと、本を読みながら歩いてきたのだ。
いまさらスマホがなんだというのか。
それでも、歩き読書族であっても、読書は自分の思わぬところで邪魔をされる。
学校に着く。
家に着く。
そうすると、読書は一旦お預けになる。
家では部屋で読む。
ごはんよー、と呼ばれる。
お風呂はいりなさい、と言われる。
もう寝なさい、と言われる。
学校の10分休みはあっという間。
読書中でも構わず声をかけてくる友人。
読書を邪魔するものは、この世に溢れている。
コーヒー一杯で粘れるのはせいぜい2時間。
やかましい音楽、姦しい隣の会話。
日当たりの良い公園でも、すぐに暑くなる、寒くなる。
虫が飛んでくる。
トイレに立つと、席は取られている。
暗くなる。
喉が渇いたと手を伸ばすと、空のティーカップ。
お湯を沸かしついでに手に取るスマホとLINEの通知。
椅子に戻った途端になるインターホン。
この世は、わたしと本を引き裂くものばかりで構成されている。
そんな悩みをもつのは、わたしだけではなかったようで。
著者の阿久津氏は、本を読むためだけの場として、fuzukueというカフェを作った。
目的は、本を読むこと。
パソコンの使用は禁止、会話は厳禁。
料金は基本的に時間制。
オーダーをすれば席料は安くなっていくが、オーダーしてもしなくても、支払い金額はさほど変わらない、という値段設定。
好きな時に好きなものを頼み、いらない時にはなにも頼まなくて良い。
そして好きなように本を読み、好きなだけくつろぎ、時間を忘れて本に没頭できる。
そんな夢のような場所が、fuzukueだ。
この本を読んでから、予約をして1度行ってみたことがある。
(本当はもっといきたい。できれば週一で行きたい。)
2時間だか3時間だか予約して、文庫本を3冊抱えて、一人なのにソファ席に陣取った。
さっさと下駄を脱いで(夏だった)、ソファに半ば寝そべるようにして本を読む。
誰も何もいわない。
だって、だれもわたしを見ていない。
みんな、自分の本しか見ていない。
最高に快適だった。
読み終わらなくて、途中で延長した。
席を立つのは、トイレに行くときと立ち上がって伸びをしたい時だけ。
飲み物がほしければ、ちょっと手を上げれば持ってきてくれる。
お腹がすいたな、と思えば、ちょっと手を挙げれば持ってきてくれる。
自分で用意する必要もない。
なにより、「何をどう頼もうとも、最終的な会計は一緒」というのが安心感が強い。
損得関係なく、自分の一番心地よい状態で読書に時間を費やせる。
こんな素晴らしい環境があるだろうか。
半日ゆっくり本にひたって、少しばかりこわばった体をほぐしながら帰路に着いた。
また来よう。
そう思ってから、もう2年も経ってしまった。
あれからわたしは、以前よりも快適な読書空間を自室に作ることができた。
それも理由の一つ。
まあ正直ちょっとした娯楽より高くつく、というのも、理由の一つ。
(だって本は無限に読めるのに、読めば読むほど高くなるから。仕方ないけど。)
場所がうちから電車1本で行けない、というのも理由の一つ。
(電車1本だったら毎週通う。)
そんなわけで、わたしの2度目のfuzukue訪問は未だ叶っていない。
以上のような理由もあるのだけれど、「fuzukueで読みたい」という本の発売のタイミングがうまく合わない、というのが最大の理由かもしれない。
新刊は買ったらすぐ読みたい。
でも平日だ。
そんなときに時間を忘れるfuzukueには行けない……
ああ、うちの隣にできないかな、fuzukue。
いや、それだとありがたみがなさすぎるから、やっぱり駅2つか3つ分先が良い。
そのくらいの距離感がちょうど良い。
それよりも、自分がfuzukueみたいなお店をやってみたい。
でもそうすると、自分は読書ができない。
それも困る。
でもああいう「本を読むためだけの場所」が、もっと世の中にはあって然るべきなのだ。
本を読むためだけの、祈りの姿勢を取るためだけの、世界も時間も、自分の存在さえも忘れる場所が、この世界には必要なのだ。
そうしたら、世界は少しだけ美しくなるかもしれないのに。