大阪の思い出とともに考えた、まちと俺と時間感覚
※まえがき。このテキストはマガジン「Our Whereabouts 往復書簡」のいちエントリーであり、いぬじん氏との往復書簡としてお届けしている。
なんか、意味もなくとりあえずアップしただけなんで、どんべえの写真はそろそろ変えようかなあ。→かえた。(2021/12/29)
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さて、今回は時間感覚という、非常に大きくも本質的な内容の問いかけをもらってしまった。
いちおう、今回の問いのコアとなるところの引用ではあるんだけど…個人的にはこのしたに引用したあたりの文章が、情景も浮かんできて素晴らしいなと思った。読んでみて、ああ、どうもカネのこととか産業構造どうのとか生き残るためのライフシフトとか、適応厨すぎる文章ばかり最近触れているなあと、文学部出自を久しぶりに思い出させてもらった。
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ぜんぜん関係ないかもしれないけど書きたくなったことから始める。今日は東京は31度、暑い日だったけど夕刻になって、適度なチルアウト感が出てきていてこういう状況が好きだ。夏が近づき、長くなった夕暮れ。これから一日が終わっていく。そして夜へ。
この空気感は、俺の大阪時代を思い出させてくれる。もう10年以上も前。夜の講座仕事がない平日の日とか、土曜日の夕暮れとか、決まって同僚やひとりだけでもまちに繰り出していたものだ。主に、ワインを飲みに行きつけのお店へ、という感じなんだけど。そしてたまにベルギービール。
京町堀とか、ちょっと足を伸ばして船場とか。心斎橋やなんばへは滅多に行かない。行くこともあるんだけど。キタでは梅田というより福島へ。人の流れのどまんなかよりも、もう少し落ち着いていて、まったりとしつつもコミュニケーションの快楽がある社交場(=飲み屋だけどね)に行ける環境がとても良かった。東京はなかなかそういうところもなくて寂しい気持ちになる。上野とかも少しアキバよりのエリアには近い感覚あるんだけど、それでも人が多すぎるかな。
この大阪時代の過ごし方の時間感覚は完全に非合理な時間だった。飲んでしかいないものね。ひどいときは夕方6時から日付またいで丑三つ時まで。若いからやれてたという面が大きいけど、今の年齢でも多少時間は減らしても同じようにお店へ繰り出すだろうな。時間を4時間以下にして、はしごを2軒に減らして笑
なんでだろうか、この環境にもし家族を伴ってもまた戻ることがあったら、それでもきっとこういう生活をしてみるだろう。経済合理性を欠くけど外食をして、自分投資とかいってせっせと読書やセミナーで知識を詰め込むようなことはあまりしなくてもそんなに焦らず状況そのものを楽しめるんだろうなと。
結論はないけど、これもまた直線的な時間感覚では得られない、円環的な感覚なんだろう。で、直線的な時間感覚で強いられる焦りとか劣等感ではなくて、このルーチンこそが幸せなんだろうと感じられる、自己充足的なコンサマトリー感覚なんだろう。俺が関西にいた2000年代中盤とか、それよりも少し前のミーツ・リージョナルが有していた感じなのかもしれない。それに苛立って上京したような人もいたんだろうと、東京から大阪に異動する際に話してくれた人の言葉も思い出す。「関西に居続けるヤツはなんだかんだいって上昇志向がないんやろ」みたいな言葉。
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関西語りはこのくらいにして、今日の今日読み直していた本も関連するだろうと思って紹介しておく。
いま、都市工学系の大学院の勉強をしていて、あーどうも真面目に勉強できんなあと思い、読まなくていいのに関連もなくはないからと脇道にそれて読んでいた宮台センセと都市工学のヨーダ的な重鎮である蓑原さんの対談本。
ここでも時間感覚のことが書いてある。平たくいえば、本の主張はまちづくりも、経済合理性に根ざして土地活用とか空間活用がされてきた結果、マクロには計画性もなくミクロには色気もないまちばかりになってしまったということが語られているわけだけど、そこのひとつに時間意識の欠如が大きくあるということだった。
便利さばかり求めた結果、そこに住まう人がまちを愛でる感覚も損なわれていくわけで、そんなではコミュニティ感覚も芽生えないなと。で、そんな場所で1歳ちょっとの子供を育てていくのはどうかなあなんて思ったりして、場所をうつるにせよそうでないにせよ、なにかアクションしていかないとなって思い始めているのだった。
おカネのことが心配で懸命に投資とか複業とか考えているクセに笑、それはそれで楽しい面もあるからやめないけど、でも本筋ではこういう環境、俺の原体験としての大阪のような環境をどうしたらつくれたり、あるいはつくれなくてもそういう環境へ戻れるようにしたらよいのかなと思うことを忘れてはいけないなという思いになった。いや、忘れてもいいんだけど、忘れちゃうと、のっぺりとした、それこそ時間感覚が直線的なものに支配されて、豊饒さのかけらもない、生きるに値しない生になっちゃうのかなという恐怖もあるわけで。
俺にとって宮台的観点は、あるいは宮台先生の言葉は、そういうのっぺりとした生きる行為を、いやいやそれじゃアカンやろ、と思い起こさせてくれるもので、劇薬でもあるのかなあと思ったりする。力が湧くんだけど、ラクに生きるのには対抗するベクトルなんだよね。思考停止して適応的になるほうがコスパ最高、って感じなんだろうけどねーもうしょうがないかな。ま、そういう感覚があるから、いまさらまた「無駄」な都市工学の大学院とかの勉強しているというわけなんだけどね。
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この本、いぬ氏も興味が深いファシリテーターのこととか、かなり巨視的な面から書いてあって、いずれ輪読的に読んでもみたい本である。ビジネスの問題解決よりは、熟議とか民主主義における合意形成の本質という文脈が強いので即効性はないのだけど。
(ちょっと例を上げておくと、ファシリテーターとして最も重要な人格的資質は、超越系の実存を生きていることだと。超越的な実存とは安心便利だけでは生きている甲斐がないと思い、<ここではないどこか>を求める人間である、とか、ファシリテーターの半分は当事者として相手に「我々と同じ」と思ってもらわなくてはならないが、それだけでは同質化してしまうだけなので、介入する集団を操作する感覚も併せ持っていなくてはいけない”二重スパイ”のような存在だとか、ね。面白そうでしょ?)
では、また。Dag.