執着しているもの それは本当は幻
思い通りに事が運ばないとき…なんだかうまくいかないとき…不安になるとき…
いろんなネガティブモードがあります。
これらは、「幻」。
昨日でしたか、スマナサーラ長老の本を読んでやめるべきリストとやるべきリストというものがあるということがわかったわけですが、その中に「意固地にならない」というものが私のリストにはあります。
自分の欲望に関してのみ集中すると苦しみが生じてくるんだな…と、最近わかってきました。日々家族と協力し合って生きているわけで、例えば昨日都内のイベントに行きたいなあと思って予定を入れていたのですが、家族の反対もあり、これに参加することで今後険悪な雰囲気をずーっと引きずることになるなあ…と察知しました。私も罪悪感を持つことになると思いました。
私の喜びが家族の喜びとは限らない。家族といっても、それぞれ個々の自由がある。個々の見解があるわけです。
以前は意固地に自分の意見を押し通すことが多かった。
けれども、瞑想で得た要領を応用して、意固地な自分を変革できるなと思いました。
子育てでもそうですが、受容がまず先。
家族の意見をきいて、自分のイベント参加をあきらめました。しぶしぶあきらめた…そうではなくて、手放してみました。
以前はしぶしぶ、ややもすると恨みながらそういった楽しみをガマンしていたのですが、仏教にある欲は…やはり苦につながる。楽しみに執着しているということです。
「あ…わたしそういう自分に気が付いていなかったんだな」
そう、腑に落ちるところがありました。
自分の執着に気づいたのです。
執着は不幸のもとですね。逆にいえば、パッと手放してしまえばこれほど爽快なものはありません。
家族もニコニコ、私もサッパリしている。
イベントには行けませんでしたが、手放してしまえばもう過去の幻です。
そこで今回の絵ですが、グーッと抱え込んでイライラしてる執着。それは実はありもしない幻であり、ゴーストであり、移り変わる私自身の一瞬の過去です。
自我を捨てる…という言葉もありますが、無理して捨てるという意味とはまた違うかも。
ただ、一つの自我に固執するのも人生つまらないかもなあと、私の場合は考えたりします。
趣味に生きる自我をいったん捨てて、母親としての自我を活かしてみるのも面白いかもと視点を変えてみる。
それだけで苦しみがなくなって、ずいぶんと楽。怖いことなんてないんです。
私という人間も無常であって、そういう自由さに気づけたのは今回のイベントキャンセル事件の収穫でもあったのでした。
☆まるっ!☆
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