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待ってくれる存在について

1冊の本を1週間かけて読めたとして、わざと、例えば1ヶ月かけて読むということも読み方の一つです。1枚の絵を、時間を倍かけて鑑賞/観察すると、今まで観ていたものと異なる見え方が突如として現れることがあります。本も同じで、読み方を変えてみたり、「疑いすぎ!」と笑われるくらいに読み込んでみると、驚くような筋が浮かび上がってきたりするものです。


本は、読まれる対象としては受け身なのかもしれませんが、読む側はいっときとしてとどまっていることがないのです。動いている私達主体に対して、常に待っていてくれる存在であるのが本です。意味が分からない状態で読んでこそ、1ヶ月後にはその前段階の「分からない状態」が意味を成してくるのです。そこには、自分自身に起きた日々の出来事や会話が影響していることが多いですし、または、別のジャンルの本からインスピレーションを受け、一気に中身が分かり始める、ということもあります。

決して早いスピードで流れている現象ではありませんが、ある1冊の本が、今起きている現象を何乗にも倍にして速度を上げてくれることもあるのです。
時代がどのように変わろうとも、本はいつでも待っていてくれます。しかも、ただ同じ状態で待っているのではなく、まるで生き物かのように、突然変異を生み出しながら待っていてくれます。


選書の醍醐味は、一言であえて表すとセレンディピティです。数百、数千冊の並びを毎日眺めて、眺めた時の気持ち・感想を日記に綴るとします。それだけでも、毎日発見が見出されるのが選書の本棚です。セレンディピティをセレンディピティと認識するだけでも、その前の状態とは大きな違いがあります。

選書事業における選書・ブックディレクションという行為は、「その状態を認識する」ということを感じてもらえるような技能/職能なのです。

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