三度目も正直
とりあえず、せっかくなので?あげておきますね。
三回目も無事でした。というか無事でなきゃ困っちゃう。
この1か月は、オシゴトとはいえかなり“GoTo”していたので、ちょっとどきどきしたけれど。
でも、移動はしていたけれどその最中ほとんど会話してないし、会食なんてそもそも機会がないし、(そもそも世の中の人たちはなんでそんなに“会食”するの?コロナに関係なく5人以上での食事なんてもう一年くらいしてない気がする)マスクも手洗いも当然気にして実行しているので、もし陽性だったら、ほんとに???がいっぱいで「身に覚えがありません」ってことになるのだろうけれど。
とはいいながら、もちろん全く何もしてないわけではなくて、GoToの恩恵にあずかってお仕事の合間に、ちょこっとだけプチ旅行というか観光をしたけれど(その頃の京都はまだそんなに人はいなかった)そのときも、一人だったから“会話”が発生しないのですよね。黙って移動して、黙って観光して、お土産屋さんとは二言三言ことばをかわすことはあっても、キャッシュレスでお買い物して、その合間にはとにかく手を洗ったり消毒したりして。傍目に見たら淋しくて潔癖な女が通りますよーー的な。
それにさ、なんといってもひとり暮らしなので家庭内感染もありえないのですよね。休みといえば引きこもっているし。
コロナとの闘いは、もしかすると淋しさとの闘いなんじゃないかって気がしています。会いたいけど会えないとか、話したいけど話せない、行きたいけど行けないとか、そういうフラストレーションがわかっているはずの予防意識を鈍らせているというか。
わたしの場合、コロナが流行するちょっと前に、ほんとうに人生が変わってしまうほど落ち込むようなことがあって、今もまだ回復できずに毎日を淡々と粛々と送ることを余儀なくされているから、たぶん、このコロナ禍に耐えられているのではないかという気もするのです。(勝手ながら、今のわたしの辛さに比べたらこんなの我慢じゃないなってのがどこかにある)けれど、もし人生ハッピーモードだったら、この状況は不満でしかなかったし、スキあらば「これくらいならいいじゃん」ってなって、きっといろいろ楽しいことを優先したくなっていただろうなと。
そう考えてみると“お一人様”行動が崇高なモノに思えてきました。家族がナンだ!恋人がナンだってんだ!!(すみませんちょっとだけ叫ばせて)
淋しいと思ったらコロナにも人生にも負ける、って自分に言い聞かせようね、これからは。
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