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多様性と平等と公平性と

2024年夏。パリでオリンピックが開催されている。

私の家はテレビを置いていないので、もちろん観戦することがない。それどころか「え?オリンピックやってるの?」とこっそり思っていたほどなのである。

このように、世間で話題となっているニュースにはとても疎い。自分の興味ある分野においてのみ、自分から調べにいきなるべく最新を知るようにはしているが、ニュースレターの通知などで遅れて知ることもある。


スポーツや祭典や流行りものにあまり興味のない(というより偏りの大きい)私は、たまたまSNSで流れてきて「ふぅーん、パリでオリンピックやってるんだぁ」と知った。

そして、今朝女子ボクシングの試合のニュースを知る。

(その後談として後日執筆した記事も最後に貼ってあります)


概要

パリ五輪は1日、ボクシング女子66キロ級2回戦が行われ、イマネ・ケリフ(アルジェリア)がアンジェラ・カリニ(イタリア)に勝利した。開始46秒でカリニが棄権。

初回、序盤からケリフの強打を浴びたカリニは、棄権を選択。納得いかない様子で怒りの声も上げていた。ケリフの勝利が場内にコールされると、カリニは膝をキャンバスにつけて号泣。握手などは交わさずリングを降りた。

ケリフは昨年の世界選手権で性別適格性検査に不合格となり、出場権を剥奪された過去がある。国際オリンピック委員会(IOC)は「完全に出場資格がある。魔女狩りのようなものに変えない責任がある」などと主張している。

THE ANSWER 


賛否あると思う。コレという、ただひとつだけの正解もないと思う。私個人の一意見として書き留めておきたいと思って今に至っている。

まず、ケリフ選手は染色体検査ではXY遺伝子を持つ。(性染色体は男性はXY、女性はXXを持って生まれる)
ただし、性ホルモンであるテストステロンの分泌を抑制する治療を1年以上行っており、テストステロン値は規定の基準値内だそう。


男の子

子どもは第二次性徴の発現時期(思春期)になると性ホルモンが分泌されるようになり、男の子はテストステロンにより骨が大きく強くなり、筋肉が付きやすくなる。
また、毛深くなったり、ニキビもできやすくなったりする。


女の子

女の子はエストロゲン分泌が高まり、月経の開始により妊娠が可能となる。脂肪もつきやすくなり、丸みを帯びた身体に変化する。
女の子もテストステロンは分泌されているけれど、分泌量は男の子の比にならない。


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第二次性徴で、ぐんと大きくなった骨格筋を小さくすることは不可能。180cmの身長は性転換手術をしてもテストステロン抑制をしても160cmにはならない。


では、第二次性徴前に性転換手術をしてホルモン治療をしていたら良かったのか…
確かに、それなら女性らしい身体とまではいかずとも小柄で華奢な骨格でいられたと思うが、12歳あたりの年齢でそこまでのことができるかどうかを考えると現実的ではない。



性自認

以前、観た映画。「早くしないと女の子になってしまう」と、治療を焦る娘(主人公)と母。
でも父親の賛同がなかなか得られず、男性として生きる選択をしているのに進めない…といった内容のものを思い出す。

ドクターと何度も面談をし、治療開始に残すは父親の了承のみというところまで来ているのだが理解を得ることが難しい。



思春期に差し掛かる年齢は特に混沌とした世界に生きやすいものであるが、ジェンダーの問題を抱える主人公の焦燥や葛藤が画面越しの色合いにもしっかりと伝わるよう描かれた作品だった。

情報過多な時代で嘘か本当か分からないものに溢れ、まみれ、そしてアイデンティティーの確立にはまだ満たない年齢である思春期。

本人の性自認を、親や親相当の保護者がどれだけ信用して理解してサポートができるのか…と考えると、思春期前に今後生きていく性の確定を認めてあげることは難しいものかもしれない。(確実に難しいはずだ)

実際、人によりではあるが揺らぎのあるものと聞く。こんなことを聞いたら、大人である親は余計に今すぐに答えを出さなくてもいいと考えるだろうし、治療による身体への負担などを考慮して確定は先延ばしにさせたいと思うだろう。

そうなると、『第二次性徴には間に合わない』ことは、ある意味ほとんどのジェンダーの問題を抱える人が経験をしてきた分岐点なのだろう。


アスリート

今回はオリンピックだが、優劣や勝ち負けのあるスポーツにおいては、前述のようにテストステロンの多量分泌があったトランスジェンダー女性はやはり圧倒的な強さがあるのではないか?というのが私個人の意見だ。

もちろんスポーツの内容によっては一部身体の作りや骨格筋の大きさ、心肺機能にはさほど左右されないものもあるとは思うが。


多様性

ここ数年、『多様性』とよく聞かれるようになった。
ジェンダーのことだけでなく、生き方を自由にできるような感覚は保護膜のような隠れ蓑のような何とも言い難い雰囲気を感じる。

これは決して悪い意味ではなく、むしろとてもいいことで、私のような人間には「いろんな人がいるからね」という、クッション的役割をしてくれるありがたい単語のひとつだ。


平等

平等はどうだろうか。
今回のオリンピックでのトランスジェンダー女性が競技参加を認めてもらえたことは、当事者選手からしたら平等に与えられるべき権利であり正しい判断をしてもらったと思っていることだろう。

対戦相手目線となるとやはり「圧倒的な力の差があるのに女性で参加するの?」…と感じてしまう。
現に2発を受け、46秒で棄権を選択したのだ。ハードなトレーニングを積んできたアスリートが。

何をもって、どの目線でどの立場でみるのが平等なのか、私には分からない。


公平

次は公平性。
平等と似てる。似て非なるものなのか?
調べていると、とても分かりやすい簡潔な説明を見つけた。

平等は「偏り・差別がなくそれぞれの特性や能力を全く考慮しないこと」、公平は「特性や能力を考慮した上で同等に扱うこと」

jomo news

となると、今回のボクシングの対戦に関しては平等であって、公平ではないということにあたるのかもしれない。



結局のところ

多様な在り方を認めて、皆が平等であることや、誰もが公平な扱いを受けること。その天秤は水平を保てているのか。

人はなぜかいつもすべてを求める。だからうまくいかないのだ。

人種によって体力や身体の作りが違うのは確か。でも、競技は地域でなく人種でなく、性差で分かれている。それはいい。
だが、今回のこれは少し違うのではないかとは思う。

男性として成長した身体を土台に持っていたらトランス女性が世界新記録を量産するのもあながち…ともよぎってしまうのは私だけか。
格闘技といわれるスポーツは暴力に見えてしまうのではないか。

一方、トランス男性は恐らく女性枠には出られない。でも男性枠ではトップにはなれないだろう。
トランス女性は男性的な身体を持っていても、男性枠ではトップは狙えないだろう。

悲しいことではあるが、何より性自認が違うのにその枠で出場をしようとは思わないはずだ。諦めていくのだと思う。

一部意見として、『性別の区分を増やす』というものも見掛けた。これに関しては無数にある性を枠で括ることが可能なのか。無性である人たちは身体の作りはもはや関係なくなる。

トランスジェンダーのみ枠を作るのか?となると、多様性からどんどん外れていく。非現実的だ。

決して、性差別の意図はない。全くないので誤解はしないで欲しい。


どんな人も同じように、選択する自由があるべきだと思うし、表出する自由が認められる世の中であって欲しいと願っている。


多様を認め、平等で公平を求める。求めることは素晴らしい。
『より良い』『上を目指す』ヒトがそういう考え方を獲得したから、今の暮らしやすさがあるのだと思う。
(私個人は上を目指す努力や粘り強さや貪欲さはないのだが)

前々から陸上競技や水泳などでも議論が上がってはいたのだが、今回のオリンピックでは下手をすると命にも関わりかねないという心配から書き記すことにした。

これはあくまで私個人の考えるものであり、答えの明確な考えではない。
たくさんの人からたくさんの意見が出されるべきで、批判も含め前向きな議論がされなくてはならないと思う。


意見が出なければ新しい見方にも気付かないし、各々がそれぞれの立場でのみの考え方しか得られない。というか得るものはない。


一般の私たちが感動をし、応援をしたくなるものがオリンピックであって欲しい。

身を削って激しいトレーニングをこの日のためにしてきたアスリートが、『やりきった』と思えるような場がオリンピックであって欲しいと願う。


その後談はこちら


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