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もうどこにも存在しないということ

もう二度と会えなくなるのはいつも突然だ。
悲嘆(グリーフ)、それは死別して残された遺族が抱える悲しみや苦しみのことを指す言葉。

たった1ミリ、たった一瞬でも、残されたあなたの世界の孤独を減らせるように。あなたは1人じゃない。
私がグリーフと向き合ってもう一度歩き出すまでの実体験を書きます。

もしかしたら天国は私たちが想像することで存在する世界なのかもしれない。私にとって太陽を失った人生の岐路、寒空を見上げながらふとそう思った。

残された人間はその後を想像することしかできない。なぜならこの私たちの次元で認識して触れるための入れ物はもうないからだ。

太陽と表現した通り、私の太陽だった。
ずっとニコニコと微笑んでいてポカポカとしていた、一度も怒ったところを見たことがない。
そんな育て方は私の大事な奥底に根付いている。

口癖は「沢山人に優しくしなさい。」だった。
辛い時に人間は少しずつ人から貰った優しさを食べて生きていくから、助け合う必要があるのだと。
「いつかどうしようも無くなった時、思い出せる暖かい思い出になってあげなさい。たった一瞬でもいいから人に優しさを貰ったと思い出せる種になりなさい。その思い出は自分への優しさに変わる。」
小さい頃から友達に意地悪すると言われてきた言葉だった。日本語に直すと少し堅苦しくなってしまうけど、私が大事にしている考え方の1つだ。

そんな突き抜けたお人好しで、沢山の人に囲まれていつも楽しそうだけど、損をすることを損だと思わないような強さがある、そんな人だった。

私は故人が最後に会いに来てくれるという迷信を信じて、49日窓を開け放って過ごした。お化けは怖くて嫌いだったが、どんな形でもいいと願った。でも神様なんていないことを私は知っていた。海を越えた島国に離れて住んでいた私は、昔から寝る前にずっと毎日神様に彼の無事を祈る習慣があった。

もう一度会えるように、明日も元気に幸せな一日を過ごせるように見守ってあげてください。

最後に手を振った日にしたまた会えるという約束だけしか叶えたいことはなかった、神頼みなんてと思いながら、私が出来たことは神頼みくらいしかなかったのだ。そして自分で働ける歳になって私はお金を貯めた。やっとの思いで全ての条件が揃った。だから来年には来れるようにと、書類整理をしていた、その矢先だった。

某流行病で最後に一目見ることも死に目に会うことも叶わずに彼の人生が終わってしまった。
神様なんていなかったのだ。私の人生を賭けて全て注いできたものが崩れる音がした。連絡を受けた早朝、目の前が真っ暗になった。
人生に絶望した瞬間だった。

流行病で帰国することも出来なかった。せめて速やかに冷やしてもらえるように、腐敗が進む前に燃やしてもらえるように、沢山の方が亡くなった順番待ちをしていたら1ヶ月かかると言われた。
お金が全ての国だった。いくらでも払うからとお願いしてその日に済ませてもらった。病院から移送する時、確認のためにビデオ通話を繋げさせてもらった。顔だけでも見せて貰えないかとお願いした。
申し訳ないけど菌が外に出ることを防ぐために黒いカバンから一切出すこともできない、何も見せられないと言われた。
ただ黒い大きなカバンが映る携帯の画面を眺めた。もう私に出来ることは他に無かった。

49日の間、私はずっとただ冷えきった窓辺で本当か分からない迷信に縋りついて待つことしか出来なかった。馬鹿だと思うかもしれないが、どうか迷わないようにと住所を記した紙も置いてもらった。それくらい最後に一目でもいいから会いに来て欲しかったのだ。

そんな中親戚は皆口を揃えて言う。
夢に出てきた、話せた、いつも座ってるソファーが沈んだ、きっと最後に会いに来てくれたのだと。
なのに私は目を開けている時間も閉じている時間も、ずっと窓辺で待っていたのにただ毎日冷えていくだけだった。そしてついに会えることは無かった。

顔の表情筋を動かすことも、澄み渡った青空が綺麗だと感じることも、生きていくために食事をすることも、全てが苦しかった。心がなくなったのではないかと思えるくらい、泣くことも笑うことも、何も出来なくなった。

そんなある日、体重も落ちて眠れない日々も続き、毎日ただ天井を見つめて死んだように生きていた私を心配した友人から「あまり心配させると安心して天国に行けなくなっちゃうよ」と言われた。

天国なんてあるのだろうか、
あるのならばどんな所なのだろうか、
もしあるのならば私もそこに行けるだろうか、
来世でも私たちは家族になれるのだろうか。

毎日グルグル考え続けた。
そしてある時私は、量子力学の「この世界は観測されるまで実在しない」という言葉を目にした。
特に気にもとめていなかった、何度か聞いたことのあるフレーズだった。
急にどうしたと思うかもしれないが、それがふと心の中にストンと落ちた。
この地球も、宇宙も、私だって観測されなければ存在しない。ここに確かに存在しているのに。
そう考えると少し納得することができた。

なぜならば天国を実体として認識することは出来なくても、残された私たちが想像しているうちは天国というものが国や宗教によって形は違えど確かに存在しているのだ。誰かが天国というものを想像し続ける限り、彼はもうどこにも存在しないけど、そこに存在しているのだ。

そう思った時、いつか聞いた事のある「目には見えないけど、あなたの中で生き続ける」というありきたりなセリフの意味が分かったような気がした。
天国が存在する限り私もまたいつか会えるのかもしれない、輪廻転生があるのかは分からないがきっとまたいつかと、矛盾しているかもしれないがもうこの人生で同じ形では会えない事実をほんの少し飲み込むことができた。

久しぶりに外に出てだいぶ暖かくなってきていた空気を肺一杯に吸い込んだ。雲一つない快晴の日だった。
私の中で初めてもうこの世界のどこを探しても彼が存在しないことを本当に認めた瞬間だった。色々な気持ちと一緒に数日間溺れるくらい沢山涙が出た。

そして涙が枯れ果てたその日からまた私は彼がもうどこにも存在しない世界で、毎日を生きて、人に沢山優しくする為の大きな一歩を踏み出した。

勿論思い出して泣くことも、懐かしくなって会いたくなることも、会えないことを再認識して苦しむことも、忘れていくことが許せないことも、俯くことも振り向くことも沢山ある。感情は理屈じゃないから仕方のないことだと思う。でもその感情も全て存在していることが何よりも生きていた証だと、これからも一緒に生きていくということなのだと月日を重ねて思えるようになってきたのだ。

最後の最後に結末が足早になってしまったけれど、存在しないことを受け入れる人にも、受け入れられず同じ場所で佇む人にも、胸に抱えて一緒に生きていく人にも、これから先もたくさんの気持ちと戦っていかなればいけない人にも、残した方にも、残された方にも、きっと世界が優しくありますようにと、そう願いたい。

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