ハイデガー「存在と時間4」(1927年)
人間の根源について考察する本書について、根源よりも、哲学の基本がわかっていない自分が読む。
読んでいて、なんとなくわかった気になる部分もあるけれど、大半の部分は思い返そうすると、理解していなかったことに気づく。
「気分」「世間話」「好奇心」「まなざし」。慣れ親しんだ用語も、哲学において語られると敷居が高くなる。
それでも懇切丁寧な解説の助けを借りて、なんとなく、ざっくりと、理解した気になる。
中山元氏の解説で、ハイデガーも最初から自分の思想があったわけではない、という趣旨のくだりがあった。
それはそうだ。ハイデガーも誰かの影響下において哲学していた。その過程で先人の思想や考察に疑問を抱き、自らの哲学が生まれた。
解説ではフッサールについて書いてあった。フッサールも世界における人間について考えていた。ただ、フッサールは気分について考察していなかった。
ハイデガーの新しさは、それまでの哲学において低く見積もられてきた「感情」というものを、高度な位置に属するのだと主張したところのようだ。人間は感情というものがベースにあって、それによっていろいろなことが決まっていく。
ハイデガーの哲学は、人間の生活そのものを対象としている。ここが、他の哲学者が神話などを分析していたのと、大きく違う。そういう意味ではハイデガーの哲学は実用的なのかもしれない。
人は、生きていく中で様々な選択をしていく。
そこには時代の気分があり、そこから影響を受けた自分の気分がある。生きていく中で様々な経験や選択をしていくうちに、個人のまなざしができあがっていく。だから、人それぞれ世界の見え方は違う。バイアスがかかっているのだ。
そして、人は他人とコミュニケーションをとる。
そこには語りの要素が入ってくる。話をする、もしくは文章を書く。
人がものを見るとき、それを見る前提としてなにかが決まっている。本書「存在と時間」においては、ものが存在するのは人の幸福のためであると規定されている。ここはそう限定してしまっていいものなのだろうか、という疑問はある。
それはともかく、語ることができる人は、沈黙することもできる。
共同体は語ることによって違いを成長させていく。聞くことができる人は、物事を理解している人だ。
沈黙することも、ただ聞くことも、コミュニケーションなのだ。
ざっくりとした理解はこのあたり。そして、ようやく4巻を読み終えたところで、残りは4冊。道半ばだが、なかなかおもしろい。