角川『短歌』2023年9月号
①モノレールの吊り革ゆれるなにげなさに「きょうもあしたもいようと思う」 井辻朱美 「 」内は誰の言葉だろうか。他の歌からは何か人外の存在を思わせる。いよう、は存在しよう、だろう。主体の心の声も重なっているかもしれない。
②子は何に溺れているか大いなる息継ぎをして話しつづける 松本志李 子が自分が夢中になっているものについて、主体に話している。そのどこに惹かれているのだろう。一気に話し、大きく息継ぎをする。自分の子であっても、何かに溺れるような熱情が眩しい。
③小澤京子「稲葉京子は負けない」
すさまじきわが愛執を浴びながらうらうらとしてねむり居る子よ 稲葉京子 〈「愛執」とまで詠う子への傾倒には驚かされる。〉この文章を読むと、「愛執」という語が子に使われるのも納得できる。
街は今日なにをかなしむ眼球なき眼窩のやうな窓々を開き 稲葉京子
挙げられている、この歌も良かった。
④山下翔「時評 短歌を決定するもの」
〈そしてここでは、句跨りという意識よりも、上の句というひとかたまりをうたう意識のほうが支配的であるようにも感じられる。〉
短歌の定型、及び五句の捉え方に対する考察。この「かたまりで捉える意識」は確かにあると思う。
〈これらのうたに共通する四句から結句への(一音だけ結句へ送る)句跨りは、今、一つの〈型〉と呼んでいいほど定着している。〉
型、まで言えるかどうか分からないが、確かに多い。七七ではなく八六。六八もあるような…。これもかたまりで下句という意識に繋がるかもしれない。
⑤山下翔〈この「「二音/五音」の分割による「連体形/体言止め」のかたち」もまた、今ではすでに共有されて普通の〈型〉となっている。〉
これは型と言えるかもしれない。この型はリズムがちょっと軋むような気がする。だから目立つし、型っぽく感じてしまう。
最近、結句五音の歌が多いような気がしていたけど、この型から派生したものかも知れないなどと思った。
私のこの文は、字数の関係で挙げられている歌を引かずに書いているので、ぜひ山下翔の原文で読んでほしい。
2023.9.20.~21. Twitterより編集再掲