『短歌研究』2022年3月号
①魚も月を見るのだろうか繰り返し身を捩らねば見えぬものあり 松村由利子 身を捩らねば見えぬものとは何だろう。月と潮の深い関係性の中でもがくように身を捩る魚のイメージが鮮烈だ。主体も何かを見ようとしているのだ。重い一連の中でテーマに言及せず、イメージで訴える歌。
②「文庫で読みたい歌集はこれだ」光森裕樹〈短歌評論の同人誌「D・arts」(全10巻)の文庫化を希望したい。(…)同じテーマに対する複数人の評論がまとまっていることに深い意味があった。〉ありがとうございます!!元発行人として御礼申し上げます。
懐かしいのでダーツの特集名を載せとこう。
創刊号(2003年4月)短歌の新しさとは何だ!
第2号(2003年8月)短歌とサブカルチャーについて考えてみた
第3号(2003年12月)短歌のなかの男と女はどうなってる?-セックス・ジェンダー・フェミニズムetc.-
第4号(2004年4月)短歌と近代化
第5号(2004年8月) 短歌と戦争
第6号(2004年12月)越境する短歌
第7号(2005年4月)歌人論
第8号(2005年8月)「読み」論の試み
第9号(2005年12月)短歌の「私」とリアルを巡って
第10号(終刊号:2006年4月)<座談会>短歌評論の現在
文庫化希望って言ってもらってうれしい限り。
③「歌人アンケート」質問②「歌集の流通のあるべき姿などの自由意見
光森裕樹〈学術分野のように、協会や出版社が力を合わせ、過去から現在までの総合誌や同人誌、歌集・歌書などをとりまとめ電子ジャーナルとしてオンラインで読めるようにすればよい。〉
現在、寄贈か流通か、などと歌集の入手方法が複数化しつつあるが、一番あるべき姿は光森の提唱する方法だろう。私はさらに電子図書館として、ある程度年月が経った評論などは無料で誰でも読めるようにすればいいと思う。入手できない本となるより、無料でも読んでもらいたい作者は多いはず。
著作権の問題が壁となるだろうか。大きな協会がプラットフォームを作って、誰でも自分の作品を登録できるようにしたら短歌の世界はもっと豊かになると思うけどなあ。少なくとも評論は絶対にそうだと思う。
④「歌人アンケート」山下翔〈話題になったころ、すぐれた書評の出たころ、議論の盛り上がってきたころにはすでに売っていないことがままある。五年も経てば多くの歌集がそんな状態で、十年二十年まえの歌集が顧みられないのは、げんに本がないから、という理由が小さくない〉
これには完全に同意する。これも先述の光森が提案した方法、さらに電子図書館化が解決できると思う。評論を読んでいても、近代短歌について述べた後、突然、今現在の歌について述べる、という、その間の時代の議論がすっぽり抜けている論が結構多いように思っていたが、その理由の一つに、本が手に入らないということがあるのなら、そのハード面の問題は解消すべきだ。
⑤吉川宏志「1970年代短歌史」「三島事件の衝撃」
三島由紀夫の辞世の歌について我妻泰(田井安曇)が述べた文「最終的に、作品のリアリティはその人間の行為が裏づける、という信仰の上に現実主義短歌は進んできたはずである。(…)」について吉川は、〈三島の場合は、作者の現実の行為が作品を生み出すのではなく、美が行動よりも先にある、と我妻は述べる。(…)三島の意図する美には人間的な苦悩がなく、演技的だと(我妻は)言っている。さらに技術的に分析することで、表現の傷を指摘する。そうして、行為より先にある歌が空虚であれば、行為もまた空虚になってしまうのではないか、と疑問を呈するのである。凝った論理だが、興味深い批判と言えよう。〉すごく興味深い。こんにち、なお考察すべき問題かもしれない。その他、前田透の論も良かった。吉川の資料収集力・分析力の凄さに圧倒される。
⑥柳澤美晴「時評」〈アンソロジーとはその性質上、単なる個人的な編著物にとどまらない、一定の権威を付与された書物であるのだ。たとえ妥当性を欠く選であってもアンソロジーとして出版された時点で一つの正当として流布してしまう。〉『歌壇』1月号の奥田亡羊の文章について。
〈アンソロジーとはこれまでの、そしてこれからの詩歌の歴史を担うに耐えうる書物でなければならない。(…)アンソロジーとは知の集積である。そしてここで云う知とは個人知と集団知の掛け合わせである。〉奥田の発言をさらに踏み込んで展開した文だ。歯に衣着せぬ、とても率直な提言だと思う。
アンソロジーに関する柳澤の意見に概ね賛成だ。奥田も柳澤も批判するものの名前を出して言っているのがいい。特に柳澤は最近、自分の意見をはっきり表明した文を幾つも書いている。文意も明快で筋が通っている。とても気になる書き手の一人だ。
2022.4.11.~13.Twitterより編集再掲