『現代短歌』2024年11月号
①酒田現「延長戦のルール」
〈長谷川麟は人生を勝負として捉え、その体感のなかで身体を動かし、歌をうたおうとする。〉
ここ,おもしろかった。確かにこの歌集のある一つの面を言い表していると思う。
②弘平谷隆太郎「故郷としての恋」
恋のやうに沈みつつある太陽が喉をふさいでなほ赤いんだ 染野太朗
〈この歌には修辞の微妙なねじれが織り込まれていて(…)自然さを回避した屈折した詠みぶりをしている点である〉
六首の歌を丁寧に評することで歌集を読み解く。
花を火にたとへるやうなおろかさで憎しみながくながく保てり 染野太朗〈歌集にはそうしたネガティブな感情語が驟雨のごとく降り注いでいるけれど、そうした感情を持続させるのにも、強い意志による継続的な努力が必要なのだ〉
一首から集全体へ読みを広げる。この評には普遍性がある。
一首一首の評を読みながら、とても説得された。歌集タイトルを含めて、この歌集に対して私が読めていなかったことが、多く腑に落ちた。修辞、古語遣い、内容、と目配りの行き届いた歌集評だ。
③城下シロソウスキー「ミームを(読む|詠む)」
〈インターネット・ミームは、仲間内で共有している符丁を、一見それとはわからない形で混ぜ込むような手法が取られることもある〉〈ミームである可能性を検討しながら読まないと、足をすくわれかねない場面もある〉
選考座談会ではこの郡司和斗の『遠い感』と青松輝の『4』のインターネット・ミームを含んだ歌をどう評するかという事が議論になっていた。選考委員が言うように引用元を明かすだけでは評にならないが、引用元はまず知りたい。知らずに評をするのは怖い。「足をすくわれかねない」。
私も『遠い感』を読んだ時に、「これは下敷きになっていることがたくさんあるな」と思ったけど、ほとんど分からなかった。城下の文を読んで、これはなるほど、色々入ってるなと。こうした歌を評するにはどんなアプローチがいいのかと考えた。
④城下シロソウスキー
〈『遠い感』のなかに散りばめられたモチーフや引用は、同世代であれば気づける、といったものばかりではなく、俳句や短歌に親しんでいるからこそ気づける種類のもの(いわゆる本歌取り)もあり〉
この評論を読んで一番ハッとしたのがここ。
インターネット・ミームを含む様々な引用も、時間のスパンが違うだけで、本歌取りとシステムは同じなんじゃないか。本歌取りは、要はどれだけ他の歌を知ってるかという知識量の勝負が根底にある技法だ。(いい歌を作れるかは別として。)歌枕とかもそうだ。ある意味、とても旧派和歌的な技法なのだが、それが形を変えて現代短歌に戻って来ているようにも思えた。
⑤谷岡亜紀「この批評がわたしを変えた」
〈安田純生著『現代短歌のことば』、『現代短歌用語考』、『歌ことば事情』は、古語と近・現代語、文語文法をめぐる三部作と言うべき論考で、「文法」に関する私の思い込みを根本から揺さぶり、蒙を拓いてくれた。〉
全面的に同意。私はこの三部作を読まずに「文語」を論じることはできないと思っている。『キマイラ文語』がどれだけこれらの本に負っているかは語り尽くせない。
⑥田村穂隆「前号作品評」
〈「ニューアララギ」はおおまかに言えばポストニューウェーブ以降の世代によるリアリズムの口語短歌を指すのだと思うが、なかにはリアリズムとは違う方向から鑑賞したくなる作品もあった。〉
この文を読んで改めて「ニューアララギ」は批評用語としては機能していないと思った。「アララギ」が規定できないのに「ニューアララギ」と言っても、ふわっとした実体の無い用語にしかならないのではないか。それに意味づけしようとすることは論の混乱に繋がるのではないか。
2024.10.15.~19. Twitterより編集再掲