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『塔』2024年6月号(1)

お互いが思いやりを持つテーブルはどうして少し寸劇のよう toron*  普段の何気ない時と違って、お互いが思いやりを持って接しようとすると、どこか不自然な、まるで寸劇でも演じているようになってしまう。おかしいと思っても軌道修正できない。人間関係の小さなずれ。

人柱として現場に立っている苦情がいつか凪になるまで 吉村のぞみ 役所の担当者として現場にいることを「人柱」に喩える。苦情にかこつけてストレス解消にされている面もあるのだろう。ただ黙って苦情の嵐が凪ぐまで待っている。機械が代替できない仕事とも言える。

てきとうに描いた眉毛のうるわしく真面目なことは長所だろうか 吉村のぞみ 真面目、と呼ばれることは時に苦痛でもある。その場に於て最も相応しい行動をする人、ある意味都合のいい人なのかもしれない。適当にやったことの方がプラスな場合もあるとふと自覚する。

もくもくと花海棠咲き詳しきを忘るることを思ひ出とよぶ 中野功一 美しい花を仰ぎ見ている気分になる上句、箴言的な下句。確かに細部を克明に覚えていては出来事はなかなか美化できない。ほんわりと咲く花のように全体を何となく思い出にするのが幸せなのかもしれない。

ちちははと子のメタファとうこいのぼり養護施設の庭を泳げり 松本淳一 鯉のぼりは家族の喩だった。そう言われればそうだが、ぼんやり見ていては単に季節の風物の一つと思ってしまう。その鯉のぼりが家庭を持たない子供たちの施設の庭で風に泳ぐ。ある非情さを感じる。

見つめたら未来が見えてしまふから夏の川面は光るはげしく 小田桐夕 未来が見えるのは好ましいことなのか。「・・・てしまふ」という言い方に好ましくない印象がある。未来が見えたら未来に進めないかも知れない。見えないから進める。見ないために川面は光を弾くのだ。

境界は桃いろの雲 眼球にこの世のひかり食べさせておく 田村穂隆 この世とあの世を隔てる桃色の雲。主体の心は今ここにはなく、ただ物体としての眼球が光を見ている。見ているものが見えておらず、光が眼球を通過していく。「食べさせておく」しか言いようがない感覚。

さざなみが織り目のようないちまいの湖面を、だけど裏返せない 田村穂隆 湖の面が織物のようだ。さざ波も布の触感を思わせる。裏返せないというのは奇想だが、そう言われたとたん、裏返せる可能性に目覚める。裏返して深い部分を曝したい。湖が心の喩のようでもある。

用のないコンビニへ寄りどうでもいいパンを買うのも自傷の一種 田宮智美 ちょっとした気晴らし、自分へのプチご褒美のつもりでいたけど全然心が満たされない。それは気づいていなかったが、やってることが「自傷」だったから。心が満たされないどころじゃなかったんだ。
 ここしばらくで一番グサッと来た歌。色々試してもどれも自傷の一種だったとしたら、じゃあどうすれば心が満たされるんでしょうね?

卑下しつつ転化させつつ自慢ばなしどうせならどうせ直球にして 潮見克子 私なんて…と卑下しているように見せながら、いつの間にか話を転化させて自慢話になっている。あるあるな会話だ。功績が正当に評価されない世の中だというのも背景にあるように思う。

ゆるされていたい、でも何に。黒髪はブラックホールのたぶん入口 山川仁帆 自分の存在を認められ、ゆるされていたい。二句句割れの「でも何に」が強い疑問突き付けてくる。下句、黒髪からブラックホールに飛ぶところが面白い。湿っぽくはならないが救いもまた無いのだ。

2024.6.23.~24. Twitterより編集再掲

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