2008年・「リアル」と「近代」(後半)【再録・青磁社週刊時評第二十八回2008.12.22.】
2008年・「リアル」と「近代」(後半) 川本千栄
『pool』の座談会で内山晶太は、かつては「歌の世界のリアル」と「現実の世界のリアル」に差があったと述べ、さらに、従来の短歌は全て「虚構が現実を説得している歌」であった、「文語で作ることが既に虚構」であった、それらの歌には「歌の世界のリアル」があった、しかし口語の流入により、短歌で詠われるリアルが「歌の世界のリアル」から「現実の世界そのもののリアル」に変わっていった、という見解を述べた。その上で内山自身はそうした変化が短歌にとって良いことか悪いことかは別の話であるとしている。
内山のような視点で「従来の歌」―おそらく近代短歌やその系譜上にある歌―を論じた例は少ない。「文語で作ることが既に虚構」という見解も一見逆説的で、語義解釈が分かれるかもしれないが、従来の短歌が、歌とはこのようなもの、という枠組みの中で作られていたのは確かだ。その枠組みの一つに、例えば日常会話とは違う文語を使うということがある。こうした歌に対して、口語を使い、従来の歌の枠組みを外して詠うことによって生れるのが、写実とは違う、現実そのままのリアルである。出席者である若い歌人たちの中で、内山以外にも何人かは、「現実の世界のリアル」だけでは歌が痩せるという意見を述べていたことが、私には驚きであり発見であった。
『新彗星』vol.2.での柳澤美晴の評論「風景の喪失/他者の変質」はここ数ヶ月の間に書かれた、若手による相互批評の中では白眉のものと思えた。
柳澤は同世代の作品の中から、まず一点目に、没場所性が顕著な作品を引き、〈「今の私」にこだわる姿勢は、風土という直線的な時の蓄積に対し、疑いを抱いた結果の産物であるようにも見える〉と分析する。風土性を失ったのではなく、意識的に排除しているという認識である。そうした没場所性の強い作品には、〈「今、ここにいる私が確かめたリアル」が荒々しく息づいている〉という肯定的な面と、〈「自分にとってのリアル」を追い求めていくことには、リスクが伴う。…物事が全て作者の認識の範囲内に置くことができるように設計し直されてしまう〉という否定的な面があると分析する。二点目に、物語性の強い歌に表れる他者像について、〈自分とは異なる来歴を持ち、異なる思想や価値観のもとに生活をしている他者の実在感が極めて薄い〉と評する。それが高じると、〈歌の中の風景も他者もほとんど心象に近くなってしまうのではないか〉と危惧している。ヴァーチャルな世界と現実の世界との境目がぼやけつつある現在において、柳澤の提言は一考の価値があるだろう。
内山の見解や柳澤の論について考察しようとするならば、全て近代短歌に立ち戻らなければならない。リアルを考え始めると、どの分野でも必ず「近代」という命題に突き当たる。先の『ケータイ小説は文学か』においても、著者は〈「ケータイ小説は」を「近代文学の終焉」の一つの里程標と見るか、それとも新しいジャンルの誕生と見るか〉という点から論を始めている。近代文学がリアリズム(写実主義)を根幹の一つとしてきた以上、リアルの揺らぎは近代的価値観の揺らぎへと直結するのだろう。2009年も引き続き、「近代」に立ち返りつつ、現代短歌の論点を考えていきたいと思う。
了(第二十八回2008年12月22日分)