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『歌壇』2024年10月号

①特集「全歌集の味わい」
川本千栄「全「歌集」と「全歌」集」
〈ある歌人を「短歌史に残す」ためには(…)全歌集の刊行が必要と思うからだ。〉
 全歌集について考察しました。お読みいただければ幸いです。

②藤原龍一郎「全歌集は想いの結晶」
〈永井陽子の場合は、遺歌集を含む既刊の歌集をそのまま収録するという「全「歌集」」というスタイルである。〉
 私の論と藤原の論は共通するところが多かった。使ってる用語も一緒。汎用性の高い語なんだとうれしかった。
〈(作者に)落とされた作品をも改めて収録するという資料性に重きを置く編集方針もあるだろうが、この全歌集は、著者の意志を尊重して、完成品としての歌集の集大成なのである。〉
私はどちらかというと資料性を重視した「「全歌」集」推しで書いたが、藤原が永井陽子の「全「歌集」」の編集方針について書いたこの論には深く説得された。自分の論の浅さも思った。「「全歌」集」は資料性重視、「全「歌集」」は文学性重視、と今なら書くだろう。

自転車に乗れるこどもは自転車に乗れぬからだを忘れてしまふ 都築直子 自転車に乗れるようになった時ふと、乗れなかった時ってどうしたっけと思っても、体の動きを再現できない。この逆戻りできない感は誰でも覚えはあるはずなのに、詠われているのをあまり見ない。

むしろ読む時こそ人らのさらけだす内面のよう夏の月出て 富田睦子 本を読んでいる時は自らの内に没入しているように思うが、「むしろ」その時こそ内面を曝け出している、という捉え方が新鮮。その内面がさらに、夏のさやかな月の喩になっている、という二重の構造。

⑤「協会賞歌集を読み返す2 真鍋美恵子『玻璃』」
 『玻璃』だけでなく真鍋美恵子の全体像を知ることができた。現実として、賞を取ってもあまり後世に話題にされない歌集もある。どういう力学に依るのかは分からないが。このように見直す視点はいつも必要だと思う。

八月のまひる音無き刻(とき)ありて瀑布のごとくかがやく階段 真鍋美恵子
前田康子〈真鍋さんのなかでは一番有名な歌なのですが、この「瀑布」という言葉をわりと河野裕子さんは気に入っていて
夏の日の石段(きだはし)高しその裡を真昼の瀑布しづかにくだる 河野裕子
と、ほとんど似ているような歌があります。〉
 長年の疑問が解消された瞬間。いつもどっちかの歌を読んで「あれ?」とデジャブを感じていた。  
 河野裕子と真鍋美恵子の交流のエピソードも楽しく読んだ。ファンレターを出して、そのうちに電話をするような仲に、って河野裕子らしい。

⑥「協会賞歌集を読み返す」
前田の講演ではあと、醜いものの中に真実を探る、というのが心に残った。 物象がすでに映らずなりたりし古き鏡を最も恐る 真鍋美恵子
横山未来子〈古い鏡とか古い本とか古いものをうたった歌がかなりたくさん出てくる印象を持ちました。もしかすると自分の老いを外界のものに重ねてみているのかなという印象を持ちました。〉
 この読みも印象的だった。私的な情報や背景をうたわない、という真鍋美恵子がどのように自分を詠ったのか、ということが見えてくるように思えた。

2024.10.20.~22. Twitterより編集再掲

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