評論に求めること(前半)【再録・青磁社週刊時評第八十七回2010.3.15.】
評論に求めること(前半) 川本千栄
(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)
山田消児『短歌が人を騙すとき』(彩流社、2010年1月)はとても面白い評論集だった。主題意識のかなり強い一冊で、この本の主軸を成しているものは短歌の「私」と虚構の問題である。構成もそれに沿ってまとめられ、山田の主張が明確な形で読者に伝わってくる一冊となっている。
私が特に面白いと思ったのは「短歌は人を騙すか」と「事実は語る」の二つの論である。その二つで山田は、渡辺直己の短歌と、それを論じた奥村晃作の『戦争の歌』について述べている。日中戦争時、中国戦線における将校であった渡辺直己の戦地詠は、「アララギ」誌上で大評判になったのだが、彼の歌は実体験を詠ったものばかりではなかった。渡辺が当時の読者や選者であった土屋文明にそれを実体験だと思い込ませた事を、奥村晃作は自分の論の中で「いけないこと」と批判している。山田はそれを取り上げて次のように書く。
…渡辺直己の短歌作品において、作中の「われ」は作者である渡辺直己その人である。一首の主体が一人称でない場合でも、その場面を見る者として作者渡辺たる「われ」の存在が前提されている。ただし、作中の「われ」のふるまいは必ずしも作者渡辺の実体験とは一致しない。彼は実在の人物である彼自身を主人公とし、実際に彼が置かれている状況…を舞台背景として、ドキュメンタリー・タッチのフィクションを描いたのである。…渡辺直己のようなやり方は、意識的にであれ無意識的にであれ、多くの短歌作者が実践しているのではないかと思われる。一人称の文学であればこそ、短歌は人を騙す。 「短歌は人を騙すか」より
山田は、奥村晃作が渡辺直己を批判するのに使った「騙す」という言葉を、むしろ肯定的に使って、奥村に異を唱えている。「事実は語る」でも同じテーマを扱っており、ここでも論旨は明快である。すなわち、一人称の文学である短歌では、作中主体と作者が同一と思われやすい事を逆手にとり、自分の実体験とも取れる虚構を作品内に滑り込ませることができる。それは作歌態度として問題無いばかりでなく、むしろ文学としての短歌の可能性を広げるものとしてプラスとなる、というものである。
(続く)