「読み」とその言語化(前半)【再録・青磁社週刊時評第三十一回2009.1.19.】
(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)
「読み」とその言語化(前半) 川本千栄
「短歌人」1月号の時評で内山晶太が、『歌壇』11月号の特集「批評のありかー短歌の評論・研究の現在」に私が書いた文章「言葉に即するということ」を取り上げている。
(…)川本は「作品批評は一首を丁寧に読み込んで、言葉が表現しているものを読み取るのがまず正道」であるとし、評者個人の体感や状況論といった目に見えないものを念頭に評するのではなく「まず、歌の言葉に即して読み、言葉を通しての批評を他者と共有するのが順序だ」という。まったくその通りで正論だと思うのだが、待てよ、となる。
短歌というものは書かれた言葉を味わうものであると同時に、書かれた言葉と書かれた言葉の空白にあるなにかをも味わうものである。(…)言葉とはなにものにも影響されず、純度100%として真空状態のなかに存在するものではなく、その置かれた状況、ひいてはそれを読み解く人間の極個人的な体感というような目に見えないものによって微妙にふるえているものであって、そのふるえをどれだけ可視化できるか、ということも、眼前に置かれた「歌の言葉」に即することと同様に捨象することのできないものではないか。
川本の論には、その部分がばっさりと取り落とされているような印象を受けた。(…)
なかなか鋭い指摘であり、心して読んだ。私としては、言葉だけを読むと主張したつもりはないのだが、改めて自論を読み返してみると、うまく表現できていないと思えるところがいくつかあった。伝わらなかったのは、書き方に問題があったということだ。そこでこの際なので「読み」に関する自分の論を確認するつもりで書き足してみたい。
内山の引用にもあるように、私は短歌の作品批評は「一首を丁寧に読み込んで、言葉が表現しているものを読み取るのがまず正道」、だと思っている。このあたりについては、『歌壇』に書いたことと今でも全く同じ意見である。この意見は私のオリジナルというよりは、読みについての意見としてよく言われていることであろう。しかし、多くの人が「言葉に即して読む」と言いながらも、具体的な読みとなるとその言葉への即し方は人それぞれで、これでは目の前の言葉を丁寧に読んでいることにはならない、と感じる評もある。極端な場合は一首の中の言葉を断片的につないで自分勝手なお話を作ってしまったり、一つの言葉に反応して自分語りをしてしまっているような例もよく見かける。
そこまででなくても、言葉を読み取る前に、作者の心情にジャンプしたり、その作者の作品傾向をまとめるような評になったりということはある。「歌壇」ではこうした評について書いた。さらに、(この週刊時評でも取り上げたが)川野里子の「透明な瓦礫」のように抽象的なものを論拠に評するのも危うい、ということを言った。
(続く)