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『歌壇』2025年2月号
①鏡から出ようとしている千の貌けれどもそれら出たとたん死ぬ 渡辺松男 凶々しいイメージ。主体の内面が鏡に映し出されている。しかしそれらは鏡の中に閉じ込められており、出ることはできない。主体の内面は表出された瞬間に死ぬのだ。
②肉体のあらざる下着干されゐて肉体はわがここに来てゐる 渡辺松男 まるでそれが不自然なことのように、肉体の無い下着と、その下着を着ていない肉体に分けて強く意識されている。自分の肉体を「わがここに」来ている、という意識のしかたも異様なほどに強い。
③父がきみ、と呼ぶ母がもつ静謐な水をわたしも半分もって 月島理華 上句、シンプルな方法で父と母の関係を浮きあがらせている。それは母の人格を描くことでもある。母の「静謐な水」を自分も半分持つという自負。父の病気が軸だが、描かれる親子関係に惹かれた一連。
④この世への言葉を使い果たしてもあなたは雁だ誰かのための 石井大成 雁が象徴的に使われている。言葉と雁は対照的で、言葉で短歌を作りながら、言葉では表現できないものを求める気持ちが底に感じられた。結句、自分ではなく誰かのため、なのが寂しいが清々しい。
⑤後輩が友達みたい手のひらに新発売のグミくれました 久藤さえ 先輩後輩、という人間関係の微妙さ危うさがある。この距離感は日本特有だろう。友達のように振舞う後輩に少しの違和感とそれを上回る新鮮さを感じて心が少し揺れている。日記の記述のような結句が絶妙だ。
⑥久永草太「時評」
〈先ほどの研究では「いいね」の数に注目することで、「面白さ」という曖昧な情報を数値として扱ったわけだが、「この歌がなぜ面白いのか」という情報までは反映できない。〉
面白さ、というものを数値化しようというAIの研究に対しての論。
数値化できないところこそが面白いんだ、というような物言いがそのうち過去のものになるのかもしれないが…。AIの話は、どんな角度から見ていいのかいつも分からなくなるのだが、この論はかなり考え方を教えてくれるものだった。
⑦綾部光芳「名歌発掘」
行春(ゆくはる)の烈しき渇き石に充ち木に充ち充ちて花鳥(はなどり)群るる/久遠なるひとの歩める古き庭花ちりばめて水あらば石 大野誠夫
〈萩原朔太郎の詩集『「青猫」以後』の「仏陀」の最後に「久遠のひと 仏陀よ!」のフレーズがあり、「久遠なるひとの歩める」は朔太郎のこの詩の影響を受けていることがわかる。〉掲出歌は『山鴫』より。大野誠夫と言えば筑摩の全集で『薔薇祭』と『行春館雑唱』しか読んだことがなかったのでイメージの違いに驚いた。掲出歌は一見華麗だけど、内面を描いていてとても惹かれた。
⑧「小池光インタビュー」
寺井龍哉〈クイズグランプリでご旅行されたのは?」
小池光〈教員になって二年目ぐらいですね。76年ぐらいかな。〉
クイズ番組で勝ち残ってヨーロッパを2週間回ったのだとか。うらやましい。76年ならまだ日本人旅行客は少なかっただろう。
しかも校長が理解のある人で、有休ではなく研修扱いで行ったとか。ますますうらやましい。←教員しかガツンと来ないネタ。
このヨーロッパ旅行は短歌関係者界隈では有名な話なんだろうか。インタビュー全体の短歌の話も面白かったが、ここが強烈に印象に残ってしまった私である…。
⑨手首の代わりに割れたiPhoneその奥に毛羽立つ海が青く映った 川本千栄 『砂の果て』12首が掲載されています。お読みいただければ幸いです。
2025.2.15.~18. Twitterより編集再掲