見出し画像

『短歌往来』2025年2月号

他人(ひと)の不幸に人は十分耐へうると誰か言ひたりガザの死けふも 中根誠 きれいごとではない歌。人間の自己中心さを「誰か」が言った。それに全く同意できなかったら歌にはしなかっただろう。主体にもそういう気持ちがあるのだ。そしておそらく読者にも。

出会ったり追いついたりを繰り返し子どもは旅人算を旅する 齋藤芳生 小学6年生だろうか。中学入試用の文章題を解いている。旅人算には出会い算と追いつき算があるが、その名前に詩がある。結句で、問題の中を旅する子どもの一生懸命な表情が浮かぶ。

樹は人に似れども人は樹に遠し古きけやきのもみぢの朱(あけ)よ 広坂早苗 樹が人に似るのは形態のことだろう。そして人が樹に遠いのは内的なことを指している。古木のもみじは、中を流れる樹液の新鮮さゆえだろう。樹から遠い人の一人として主体は欅を見ている。

④勝又浩「虫と日本のアニミズム文化」
〈今様と虫といえば「舞へ舞へ蝸牛(…)」などがよく知られているが、この蝸牛は、蝶や蛍と違って短歌の方では全く詠われない虫なのだという。〉
 和歌では詠っていい素材といけない素材があった。詳しくは知らないが。それを無化したのが明治の和歌革新運動の一つの成果だと言える。私だけでなく、今の歌人は、和歌で何が詠っていけない素材だったか知らないだろう。現代の歌人には詠っていけない素材などほぼ無い。  
 この文章で紹介されている『虫たちの日本中世史』(植木朝子)も面白そうだ。

2025.2.20.~21. Twitterより編集再掲

この記事が参加している募集