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『塔』2024年10月号(2)

梔子は白さをしぼるやうに咲き六月の葉のくらがりに映ゆ 小田桐夕 「白さをしぼるやうに」という比喩に惹かれた。形状も色も同時に言えていると思う。白さをしぼり出すという、花の必死さを感じる。白さが葉のくらがりの中に映えるというのも目に浮かぶようだ。

なんのため働くではなく誰のため生きるかなんだ 雨傘を差す 仲原佳 初句二句のような疑問を感じることは誰にでもある。しかし三句四句のように断言されると、励まされ背中を押される感じがする。主体は雨傘を差して、悪天候の中に出て行くのだ。強い意志を感じる。

教室を乱す子どもを叱りつつ個を大切にと伝える授業 谷口結 教師なら誰でも感じること。矛盾ではなく、どちらも本音なのだ。自分の個を大切にしながら他人の個も尊重してくれる子どもに、そのように指導できる教師になりたい、と思いながら努力するしかないのだろう。

死ぬのならひとりだろうか高速の走行車線ふつうに走る 君村類 死ぬ時は一人、だが事故をしたらその限りではない。そう思いつつ「ふつうに」走る。考えていることに関係無く、行動はいたって冷静。この「ふつうに」の用法もすっかり「ふつうに」なった。

遠くから来た鳥たちが遠くへと帰る 鎖骨にかすかな痛み 真栄城玄太 鳥の往還を見守っている。その時、鎖骨がかすかに痛む。鳥であった記憶などないのに、関連が無いはずなのに痛む。飛べないこと、この場を去れないことへのかすかな痛みだろうか。

ばさばさとわくら葉ちらす桜にも桜を休みたき日のありて 渡部ハル 初句二句は三句の桜にかかる。三句以下は桜を他の語に入れ替えても通じるだろう。むしろ桜が何かの喩のようにも読める。その「何か」は初句二句から少し疲れていることが伝わって来る。

「まったく、もう」と言ってあなたを許す時私一番幸せでした 平田あおい おそらく「あなた」の主体への甘えだったのだろう。それも分かってのことだった。もう主体と「あなた」は離れてしまったのか。許すも許さないも関係の無い間柄になってしまったのかもしれない。

水は水に擬態してゐる 白じろと光れ、晩夏の忘れられた匙 空岡邦昂 初句二句に惹かれた。自分が本来そうであるものになり切れていない。主体自身を投影しているのかもしれない。庭に置き忘れられた一本の匙に水が溜まっている風景か。人の来ない池なども思った。

あと二本我が手欲しかりし若き日よ今日ぽつねんと蚊を叩きをり 河上久子 若い頃は猫の手も借りたい、自分の手がもう二本欲しい、と阿修羅のように仕事をして子育てをしていた。でも今は年を取り、手が空いている。今日も蚊を叩くことしかしていない。寂しい両手なのだ。

乾びつつあるあぢさゐをまひるまの線描の雨のベランダに置く 近藤由宇 「線描の雨」という表現は喩えなのだが、実際に線描が目に浮かぶ。ビュッフェの絵のような雨を思った。そこに乾いて枯れそうになっている紫陽花を置く。紫陽花の渇きを癒すには少し弱い雨だけど。

2024.12.7.~8. Twitterより編集再掲

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