現代短歌評論賞受賞作・候補作を読む(前半)【再録・青磁社週刊時評第六十六回2009.10.13.】 

現代短歌評論賞受賞作・候補作を読む(前半)   川本千栄

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)
 『短歌研究』10月号に「第二十七回現代短歌評論賞」が発表された。この賞は毎年、評論の課題が設定されており、今年度の課題は「自然と短歌―近現代短歌は自然とどのように向きあってきたのかその軌跡と現状分析を軸に」である。これはかなり手強い課題だと思う。自然というと実に幅が広いし、論としての焦点が絞りにくい。こうした課題の場合、「自然」を大づかみに捉えるのではなく何かに的を絞って書くのが書きやすい。実際、受賞作・候補作の一覧を見てみると、それら7編の中で実に3編が「月」に焦点を絞ったものだった。ちなみに受賞作は「樹木」に焦点を絞ったものである。
 受賞者山田航(26)は「かばん」に所属、「アークの会」「pool」に参加している。受賞評論は、「樹木を詠むという思想」。このタイトルには、樹木を詠むということが一つの思想的態度なのだ、という論者の視点が提示されている。
 山田の論を概括すると次のようになる。前近代の日本においては自然は神の領域にあり、人間は自然の一部でしかなかったが、近代においては、デカルト的主客二元論によって、自然は人間と切り離された他者として捉えられるようになった、その意味で「自然」というのはきわめて近代的な概念である、というのが序論で、ここで前田夕暮前川佐美雄前登志夫が挙げられている。本論では渡辺松男大口玲子平井弘大谷雅彦がどのように樹木を詠んだかが論じられている。本論を通して、自然への畏敬・畏怖を根底に持ちながら、人間は樹木に「人間的なもの」を見続けてきた、というのが山田の主張である。結論部分の

 正岡子規の近代短歌改革以降、短歌とは〈私〉を中心に据えて詠まれるものになり、自然とは〈私〉の前に立ちはだかる巨大な他者のひとつとなった。そして近代思想によって「自然詠」という領域が発見され、樹木に近代的な意味を付与する歌い方があらわれたのである。現代において自然を詠むということはそれ自体が近代的思想の発露になっている。樹木とはまさにそのメタファーの突端となっているのである。

というまとめは色々な問題定義を含んでいて興味深かった。確かに、近代において「自然詠」という領域が発見されたという指摘は重要であり、近現代短歌を論じる時にもっと強く意識されてもいいことだと思う。私たちはそれこそごく自然に「自然」という言葉を使っているが、前近代にはどのような概念で自然を把握していたのか、近現代人は自然と自己をどのような位置付けで捉えて詠ってきたか、自然主義や花鳥風月なども含めて短歌における自然とはそもそも何なのか、などの問題が、山田の論文を読み進むにつれて、改めて頭に浮かんだ。これらはこの週刊時評の前担当者である大辻隆弘吉川宏志が激論を戦わせた問題でもある。

(続く)

この記事が参加している募集