『第四十回 子規顕彰全国短歌大会入賞歌集』
吉川宏志「子規の読者意識」
①同じタイトルで『塔』の2022年1月号「青蝉通信」が書かれている。吉川の最近の関心事なのだ。何カ所か挙げる。 〈選者も読者の一種ですよね。ただ、あまり選者や読者を意識しすぎるとよくない面もあります。読者ウケを狙うと浅い歌になってしまいやすい。読者の存在は意識せざるを得ないのですが、変に意識しすぎると、自分がほんとうに歌いたいことが歪んでしまう。短歌における読者意識は、とても重要で、難しい問題だと思います。〉
結構耳に痛い言葉だ。歌会で高評価を得ると、次も似たようなパターンでつい作ってしまうとか。高評価を得た他人の歌に、次回から無意識で寄せてしまうとか。こう作れば選ばれる的なコツを掴んでの歌作りは、自分の内面を詠うにはマイナスなのかも知れない。
②吉川宏志〈このように読者が予想していたものと違うものが入ることで、かえって情景がリアルに見えてくる。短歌も同じなんですね。皆が同じように想像していることをそのまま書いても、リアルに感じません。人間は自分が想像していたものと異なるものが入ってくることで、かえってリアルに感じる傾向があるのではないでしょうか。〉
子規の文を引いて、意外性の中にリアルを感じる人間心理について述べている。この部分は2月号『塔』の「青蟬通信」でも書かれている。(今気づいた。)
この子規の論は穂村弘『短歌という爆弾』の「共感と驚異」に近い気がする。いかにもありそうなことでなく、意外性のあることの方が実感を持って受け取られるというところに共通点を感じる。穂村が子規に影響されたかは分からないが、子規が100年前に同様の指摘をしたことは言える。
③吉川宏志〈ドラマや映画で、離れている恋人たちが、「月が出ているね。」と同じ月を眺めながら電話やメールで語り合うシーンをときどき見ることがあります。同じものを見ることでも思いは通じる。これは人間の本質なのではないでしょうか。〉
とても分かる。
④吉川宏志〈読者をリズムによって陶酔させる歌だと言っていいでしょう。(鉄幹の)これは子規とは異なる読者意識でしょう。子規はリズムによって読者の気持ちを盛り上げるといったことは言いません。視覚的な子規と聴覚的な鉄幹、というふうに対比できるかもしれません。〉
この指摘はとても面白い。子規と鉄幹はよく比較されるが、読者意識の違い、という比較はあまり聞いたことがなかったかも。子規の視覚重視という点はやはり近代的だ。鉄幹の方がどちらかというと古典和歌的、調べ重視だったのか。芝居っぽいとも思った。
⑤吉川宏志〈人間は、今だけを見て生きている存在ではありません。桜の花見がわかり易い例ですね。不思議なもので、私たちは桜の花を、去年一緒に見た人や、何十年も前に一緒に見た誰かなど、過去のことを思い出しながら見つめます。去の風景や時間を重ねながら、桜の花や、月や、山など、変わらないものを眺めてしまう心理は、人間の中に確かにあるのではないでしょうか。歌を読むときも同じで、過去に作られた歌を重ねつつ今の歌を読むのは、自然なことであり、大切なことであるように思います。〉
これもよく分かるし、沁みる。ここは吉川は子規とは意見を異にしている。子規の読者観に欠けている点として挙げている。後で〈(読者は)時間を引きずりながら読んでいる〉と述べているのも心に響いた。子規がそこを理解できなかったのは若くして死んだからという説明も一理ある。
⑥吉川宏志〈短歌も近いところがあるんじゃないでしょうか。いろいろな感想を言われて、それにいちいち反応してしまうと歌がぶれてしまいます。自分の中に理想的な読者をイメージして、その人が自分の歌をどのように読むだろうと考えながら作る。具体的な一人を思い浮かべられるようになれば、歌は不安定に揺らがなくなります。〉
最初に述べたことに戻って、伏線が回収されている。そして、
〈私の理想的な読者は、亡くなりましたが、河野裕子さんです。〉
そう来ると思ってました。泣ける。
⑦吉川宏志〈読者が少ない方がかえって自在に歌えることもあるんですね。(…)読者をどのように想定するかによって、歌の内容も変わっていくんですね。たくさんの人が分かる歌を作ることも必要ですが、身の回りの少人数にしか分からない歌からは、独特の味わいが生じることもあります。子規の歌には、その両方があるからこそ面白い。〉
少数にしか通じない歌、ある歌会でだけ味わえる歌、挨拶歌のようなもの。そうした短歌は近現代短歌では割と余芸的に思われている。近世的なのか?子規はその分かれ目の所にいたのかもしれない。
2023.2.22.~25.Twitterより編集再掲