戦後短歌再考の機運(後半)【再録・青磁社週刊時評第五十七回2009.8.3.】

戦後短歌再考の機運(後半)       川本千栄


 さらに、いわゆるメジャーな歌人を取り上げるかマイナーな歌人を取り上げるかで6人の論者の視点が大きく割れていた感がある。つまり、森岡貞香葛原妙子など時代の主流といえる歌人を取り上げる視点と、生前は歌壇の重要人物であったにも関わらず晩年及び死後ほとんど忘れられた存在である生方たつゑや、戦前の有名歌人であった、あるいは無名に近い15人の女性歌人など、主流ではない立場の歌人を取り上げる視点である。メジャーな歌人とマイナーな歌人のどちらをを論じるかというのは各人に任せても、それらを貫く統一テーマが欲しいと思った。
 私は個人的にはこのシンポジウムを通して「文体」の問題を突きつけられたように感じた。戦後の表現として、森岡貞香の文体はイコール森岡の身体である、文体に伴って「われ」が発見されていく、森岡の歌は絶対的な「われ」が存在しない歌だ、といった花山多佳子の講演を非常に面白く聞いた。また秋山佐和子の講演によると、柳原白蓮は戦中「軍神の母」としての立場で詠い、戦後、息子の戦死を通して「悲母」の立場で詠った。立場が変わっても、文体は変わることは無かった(そして一般読者はそのどちらの歌も受け入れた)。こうしたあり方も短歌の一つの姿を表していると思えた。討論において、川野里子が戦争による思想の劇変や断裂を受けとめ得るのは文学しかないのではないか、そのあたりのことを表すのに同じ文体で行けるのかどうか、という発言をし、多いに考えさせられた。
 これらはそれぞれお互いの問題意識に基づいて発言されており、一人の発言に一人が返答したという受け答えになっていたわけではない。しかし、今回の講演や討論を聞くうちに各人がそれぞれ、「戦後短歌」という大テーマの下に、「戦争という大きな出来事の後、短歌の文体はどのように変化したか、あるいはしなかったか、またその要因は何か」とでも呼べるような小テーマを持っているように思えた。次回は、各論者が戦後短歌のある観点(例えば今回の「文体」など)に的を絞って講演し、その後討論すれば話は噛み合って、会がより一層活性化するのではないだろうか。そういったことを思いながら第二回を楽しみに待っている。

(了 第五十七回2009年8月3日分)


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