評論に求めること(後半)【再録・青磁社週刊時評第八十七回2010.3.15.】
評論に求めること(後半) 川本千栄
山田消児の文学観には異論もあるだろう。柴田典昭は「短歌現代」3月号の時評で〈「事実」べったりの「私」から、「虚構」や「演出」を経た「私」への転換。そこには歌人としての、創作者としてのプロ意識があり、「自由」がある。…それだけが求めるべき「自由」なのであろうか。〉と疑義を呈している。
私としては、この評論集を通じて述べられる「私」の捉え方に大いに刺激を受けた。山田の引いた「私」の補助線によって、今まで私が掴みかねていた何人かの作者の歌が腑に落ちた。ただし、虚構に関しては、あまり極端なものには、山田のように肯定的になれない。
このように、山田の評論は論点が明確に分かるため、同意も反論もしやすい。おそらくこれは、山田の文章が非常に分かりやすいからだろう。これは小さなことではない。
歌壇には分かり難い文が蔓延しているのではないか。そこには、分かり難い文を高尚な文と勘違いしてありがたがる風潮も、読者側の問題としてあるのかも知れない。
難解な事柄を難解なまま提示するのでは評論を書く意味はない。難解な事柄であっても、論旨を明快にし、文章を吟味・整理し、読者の立場に立って分かりやすく提示してこそ評論を書く意味がある。分かりやすい文章は、書くのが簡単なように見えるが、実は全く逆で、書く側に多くのことを要請するのだ。だからこそ、読者の側もそれを読んで、今まで理解出来なかったことが理解出来るという、読む喜びを持つのではないだろうか。
(了 第八十七回2010年3月15日分)