批評用語の持つ力(後半)【再録・青磁社週刊時評第十九回2008.10.20.】

批評用語の持つ力(後半)            川本千栄

 川野里子がどこまで「酸欠世界」といった主観的な批評用語を受け入れているのかは分からない。しかし、川野は、角川「短歌」7月号の時評「記憶の瓦礫と透明な瓦礫」において加藤治郎穂村弘を論じる際、私たちの周囲や内部に透明な見えない瓦礫が広がり始めている、と前提した後、〈加藤穂村の作品は、見えない瓦礫を、ここだ、と「指さす」ことそのものだ〉という評をしている。「透明な瓦礫」は「酸欠世界」と同じ程度に私には意味不明である。多義的な喩を批評用語のように使うことの危険性を憂慮する。それが現代短歌批評の一翼を担う川野里子であるだけになおさらである。
 もちろん、あるキーワードを使うことによって、問題が明確になることもある。しかしそのキーワードが多義的に解釈される場合は、それを使う人それぞれが違う含意を持って使ってしまうということも大いにあり得るだろう。造語的に作られた「酸欠世界」や「透明な瓦礫」といった最近の語は言うに及ばず、実は「写生」といった基本的な用語ですら、短歌の批評においてこれが衆目の一致する使い方だというものは確定していないのが現状だ。
 私が『風景と実感』という評論集の中でももっと脚光を浴びていいと思うのは、「風景」「実感」といった誰もが敢えてキーワードにはしないような基本的な用語に焦点を当てた点である。吉川は例えば、「実感」という語がそもそも子規の時代はどう使われていたのか、与謝野晶子がそれをどのように大きく変えたのか、といった、時代を通しての言葉の変遷を検証している。あるいは、「風景」という、批評用語とも意識されていなかった日常用語にスポットを当てて、「見る人が風景をつくりだす」「風景とは、一見普遍的なもののようであるが、じつは時代状況に深く影響されている」という洞察に読者を導く。人が当たり前と思っている事柄や用語の裏に、当たり前でない気付きを見出す、こうした吉川の力に、もっと読者である私たちは意識的になる必要があると思う。
 私たちは言葉を使い、言葉を操っているつもりでいるが、はたしてそうだろうか。どんな思考も言葉無しでは成り立たない。適切な名詞が無ければ、その物の存在にも私たちは気付かないものなのだ。だから論をリードしようという意識のある人が、目の開かれるような用語を思いつくことだけに腐心しても不思議ではない。
 しかし、それで却って物が見えにくくなることもあるだろう。わかったような名付けは、目の開かれるような思いを抱かせる反面、それに当てはまらない状況を見逃しやすくする側面も併せ持つ。言葉を操っているつもりが、逆に言葉に思考が囚われてしまうのだ。今、私たちに必要なのは、目立つ批評用語を創出することではなく、「風景」といった一見ありふれた用語にどれほど読みの可能性があるかを見出そうとする努力ではないだろうか。
 『風景と実感』を読んで私が繰り返し考えるのは、そういったことなのである。

了(第十九回2008年10月20日分)



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