思考のプロセス
『塔』二〇二〇年五月号の永田淳さんの「八角堂便り」は私のツイートについてだった。小さな一言を取り上げてもらってありがたい。と同時にやはり一言では伝わらなかったなとも思う。今までの経緯と私の考えを書いてみたい。
まず『塔』二〇一九年四月号の「創刊六十五周年記念評論賞選考座談会」で澤村斉美さんが「結論を急がないで。もっと言うと、結論は要りません。読みをありのままに記述するだけで、論になります」と発言したことを、十二月号の「年間回顧座談会」で永田さんが引いて「書いてるうちにあっち行ったりこっち行ったりする。そしてそのままほったらかしても、多分評論って成り立つと思うんですよ」と賛成した。それについて私がツイッターで「それで成り立つのは、そう見えるように書いてるからでは?」と発言した。それを受けて永田さんが五月号で「私たちが評論を読むときに、本当に読みたいのは結論ではない、そこに至るまでのプロセス、評者の思考の理路であるはずだ」と書いた、という流れだ。
永田さんの今回の意見は、四月号の澤村さんの発言、十二月号の永田さん自身の発言と重なる。全くもっともであり、読者としての私はそこに反対していない。
しかし、書くとなると、私はこのタイプの評論はとても難しいと思う。見た目にはあっち行ったりこっち行ったり、思考のプロセスをそのまま書いているように見える評論は確かにある。だが、それはそう見えるだけで、書き手は自分が意識していなくても、相当高いレベルで自分の思考を俯瞰できている。そしてそれを論として成り立たせる筆力を持っている。それはそう簡単に身につく力ではない。慣れない人が同じことをしようとすれば、支離滅裂な文章になりかねない。これから評論を書こうとする人にそれを要求するのは、ちょっと待ってと言いたかったのだ。
もちろん、結論に向かって書くことが、簡単と言っているのではない。結論を目指してシンプルに書いたはずが、他人が読んだら何を言いたいのか分からない、ということは往々にして起こる。しかし、その場合でも、何度も書き直して論点を徐々に明確にしていくことができる。それを繰り返して、書くことに慣れていけると思うのだ。
2020.7.『塔』「方舟」