角川『短歌』2022年7月号
①ウクライナの人びとの手に、プーチンの手に、復活祭のあかい蠟燭 小林幸子 もちろん、違う画面上の映像だろう。けれども、彼らは同じ宗教の同じ儀式をしている。異なる宗教の人同士が争うのとは、また違った怖ろしさを感じる。赤い蠟燭に映像としての衝撃力がある。
②松村正直「啄木ごっこ」「問答短歌の系譜」
『いづら行く』『君とわが名を北極の氷の岩に刻まむと行く』
『なにを見てさは戦くや』『大いなる牛ながし目に我を見て行く』
これらは1908年に石川啄木が「明星」に発表した歌であり、当時、「明星」にはこうした歌が流行していたらしい。
松村はこうした歌を「問答短歌」と名付け、元々カギカッコ内は発話を意味しているため、口語化しやすかったと分析する。
「あかんぼよ。」「えゝ、えゝ。」「ふたりはあかんぼよ、こしてからだを揺すりませうよ。」西出朝風(1918)
青山霞村と並ぶ、大正期の口語短歌歌人、西出の歌を引いている。
「酔ってるのの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」穂村弘(1990)
「お母さん、働いてんの?」「働いてません。なんにもやってないです。」大松達知(2020)
問答短歌の系列はこうして受け継がれていることを松村は指摘する。源流は遥か百年以上遡るのだ。
③黒羽泉「歌人解剖 窪田空穂」
〈自身の「弱者」としてのメンタリティを支えとし、言うなれば、そのままの自分を愛することによって、他者の承認を求めない強さがあったのではないか。
まだ見ざるおのれ見んとし思へればわが世はまたも美しく見ゆ 窪田空穂〉 この歌とてもいい。
④楠誓英「不可視なものを視る眼」
たつた一人の母狂はせし夕ぐれをきらきら光る山から飛べり 前川佐美雄〈佐美雄には「飛ぶ」歌が多く存在する。自己の本能をさらけ出し、大自然(それは「死」でもある)の一部になりたいという狂おしいまでの願望がある。〉
前川佐美雄も前登志夫も「不可視なもの(死者・霊)」を視ようとしていたと続ける。楠はアララギのリアリズムが「不可視なもの」を詠む事が少ないことから書き起こしている。そのスタート地点があるから、よりこの文に深く引きつけられた。
⑤鈴木加成太「時評」〈「文學界」2022年5月号では「幻想の短歌」と題した特集が組まれ(…)全体としては多様性、別の言い方をするならば分散を感じさせるものだった(…)短歌の「流行」が中心のない茫漠としたものであることを暗示していたようにも思う。〉
〈「短歌が流行っている」のであれば、ブームが現代の短歌に及ぼす影響を予測し、どのようにブームとは別の在り方を残していくのか、急激な盛り上がりの先にどのような将来像を描くことができるのかを考えておきたい(…)〉
「文學界」から始めて、短歌の流行をアートの状況なども鑑みながら、資本主義の制約下での芸術活動という観点で考察した時評。「流行」というのは著者がこの文を書くきっかけであるが、さらに深く、問題の根や今後の在り方についても書かれたとても力ある文。ブームであるなら終わりがあるという、冷静な視点に得るものが多い。読む事をお勧めします!
2022.7.20.~22.Twitterより編集再掲