『塔』2024年1月号(2)
⑦対談「短歌における口語と文語」吉川宏志×栗木京子
栗木〈本当の古語の流れを汲む文語というのは、末尾じゃなくて途中に来る、接続部分に来る、というか関節に来る。尻尾ではなくて関節に来る古語というのが本当の文語表現ではないかと思うんです。〉
この関節という把握。
この直前の部分で、語尾に文語の助動詞が付いた歌について言及しているが、今現在、ほとんど歌人が語尾に文語の助動詞をつけたものを「文語」と認識しているのではないか。途中ちょっと古語の名詞を混ぜるとか...。それに比して関節部分という把握はとても面白い。
⑧対談
吉川宏志〈文語ってどこか写実につながる面もあるのかなと思うんです。口語は本音がぼろっと出てきて、文語では写実的な、客観的な眼差しが入ってくる。そこで主観と客観が一首の中で混じり合うことになる。〉
文語は作者の心から少し距離があるからだろうと思う。
⑨対談
吉川宏志〈口語短歌にも二通りあって、口語で勢いをつけていく歌い方と、(…)なるべく感情を出さずに、平板な歌い方をしたものがあるんじゃないか、ということなんです。(…)〉
栗木京子〈よく「文語には時制を表す助動詞が豊富だから(…)そういう表現が多彩だけれども、口語はそういうところが乏しい」と言いますけど、それを逆手に取って「何した」「何した」「何しない」といった現在形だけで切っていくというね、これ(佐クマサトシの歌)はこれで、私は一つの実験だなと思って。〉
口語短歌に二種類、勢いをつけるor平坦さを目指す、それにかかわる時制の助動詞の問題…この部分だけでも論点は豊富だ。
⑩対談
吉川宏志〈口語で歌うというのは、普段のままの自分を短歌の中で表現したいという欲求に、つながりやすいですからね。〉
〈文語を使うのは、定型を使うのは、現実の自分とは次元の異なる自己を、言葉の中で生きるということなんだ、と僕は考えていますね。〉
ほぼ納得。ただ「定型を使うのは」というのがミソではないだろうか。口語短歌で、ものすごく破調とか、句の数まで変わってても、作者本人がそれを短歌として提出している時、定型を使うその意味が改めて大切な論点になると思う。
⑪対談
吉川宏志〈口語短歌の一つの特徴として、誰に向かって言っているのかという問いが、読者の意識の中ですごく立ち上がってくる。〉
これも大切な論点だ。読者に呼びかけているのか、独白なのか。文語ではありえる論点なのか。今後気にかけていきたい。
この対談の冒頭で
栗木京子〈まず、川本千栄さんの『キマイラ文語』という本ですよね。評判の高い本ですが、私もとても印象深く詠みました。〉
とご紹介いただきました。ありがとうございます。うれしいです!今は論点も進化していて、もっと考えを深めていきたいなと思っています。
2024.2.14. Twitterより編集再掲