〔公開記事〕「ただの偶然」(後半)『現代短歌』2024.3特集「新人類は今」記載エッセイ
「ただの偶然」(後半) 川本千栄
九一年、なぜか私は現代短歌に興味を持ち始めたのだが、それがどこでどう行われているのかが分からない。どこかにありそうなのに見つからない。図書館で近代短歌の本は何冊も読んだが、現代短歌の本は置いていない。歌集も総合誌も本屋に売っていない。結社の存在も知らない。当時、PCも携帯電話もまだ一般人の持つ物ではなく、ネットは普及していなかった。九六年、俵万智が選者になったのをきっかけに新聞投稿を始めた。毎週投稿し、掲載を待つ日々だ。
現代短歌にアクセスできたのは九八年、ただの偶然だった。職場の傍の小さな市民会館に河野裕子が講演に来たのだ。講演後、会館から出て来る河野を待ち伏せして、私も短歌がしたいと話しかけた。その場で河野に誘われ、間もなく結社「塔」に入会。偶然は運命だった。それまでずいぶん長くかかったのに、急に現代短歌の世界が目の前に広がった。
読むべき歌集歌書が大量に見えて来た。河野裕子を始め、「塔」の歌人の歌集からどんどん読んだ。ニューウェーブは下火になっていたが、とても目新しく感じた。「塔」に入会したのと同じ九八年、大口玲子が「ナショナリズムの夕立」で角川短歌賞を受賞。河野裕子が強く褒めていたので、受賞作を繰り返し読んだ。翌九九年に大口玲子歌集『海量(ハイリャン)』が出た。読んで泣いた。歌集を読んで泣いたのは初めてだった。内容に、巧さに打たれた。私にとってこれは越えられない壁ではないか、そう思って泣いた。でも私ももうやめる訳にはいかない等と思った。それも、もはや四半世紀近く昔のことになってしまった。河野裕子は二〇一〇年に逝去。河野の歌集と大口の歌集は今も私の頭上の高いところにある。
〔公開記事〕『現代短歌』2024.3.