女性歌人という分類(後半)【再録・青磁社週刊時評第八十一回2010.2.1.
女性歌人という分類(後半) 川本千栄
現代において「女流」というのは廃れつつある言葉だろう。「男流」と
いう対になるべき言葉はない(フェミニストによる『男流文学論』という
本があったが)から、最初から男の視線の貼りついた言葉であり、廃れつ
つあるのもそのせいだと思う。(山田富士郎 角川『短歌』2010.2.)
山田の論は「女流」という言葉を的確に解説している。私も山田に同意するが、その上で、「女流」という言葉を使おうが「女性歌人」という言葉を使おうが、それを一つのジャンル分けの指標にしてしまうのはもう古いのではないかと言いたい。現代において、女性・男性問わず生き方は多様化しており、女性という分類で括れないことは短歌だけに限らないだろう。どうしても女性歌人特集がしたいのであれば、論者は男女共、座談会も男女混在が自然だろう。年間回顧座談会などでは話し手は普通に男女混在の形なのに、「女性の歌を論じる」という題になったら論じる側に女性がいないというのは、不自然だと言えよう。
これと現象面は全く逆であるが、根がつながっているのではと思えることとして、(前回のこの時評でも触れた)「今、読み直す戦後短歌」のシンポジウムがある。6人のパネラー全員が女性で、戦後短歌として取り上げる歌人も皆女性なのである。戦後短歌が語られる時、今まで男性ばかりが話題になることが多かったからかも知れないが、取り上げられるのが全員女性となると、バランスが不自然なように思える。女性という枠組みをあまり強く意識させれば、本来の戦後短歌を読み直すという目標と違う印象を、人に与えることもあるのではないか。
物を考える枠組みとして男女という価値観は、短歌の世界には意外に深く根を下ろしているのではないだろうか。そして、それはしばしば本当に話題にしたいことを却って見え難くすることもあるのではないか、と私は思うのである。
(了 第八十一回2010年2月1日分)