「読み」とその言語化(後半)【再録・青磁社週刊時評第三十一回2009.1.19.】

 「読み」とその言語化 (後半)        川本千栄

 以上のように、言葉が表現しているものを読み取るのがまず正道、という主張は、言葉を丁寧に読んでいない評が案外多いのではないか、という思いから発している。つまり、「言葉に即すること、それがまず前提だ」と言いたいのである。稿はそこで終わっているが、「読み」がそこで終わるわけではない。次に、作者に関する情報、時代や社会の状況なども踏まえながら読んでいくことになる。「透明な瓦礫」や「酸欠世界」といった抽象的なものを評の論拠にはできないが、「戦後すぐ」だとか「学生運動の最盛期」だとかの社会状況は一首を評する上で有効だ。作者の周辺情報や時代・社会背景は、評者によって知識の多少はあるが、書かれた文字同様に誰に対しても明白なものと言える。
 しかし、読みに関して実は最も問題なのは、まず言葉に即して次に作者の情報などに照らして丁寧に読んだとしても、全ての歌が読み切れるわけではないという点だ。ある歌がいいと思っても、その歌の良さを上手く言語化できないことはままある。「分からないけどいい」「いいけれどその良さが説明できない」という感覚は、私自身が歌を実際に読む場面で常に内心に持つ矛盾点である。例えば、ある歌集を評する際、特徴的な点に沿って歌を挙げ、解釈していく。その時に一番琴線に触れた歌が、そうした分類と解説になじまないということが度々ある。解釈したらつまらないものになってしまい、歌の良さが消えたように思えてしまうのだ。散文にすれば韻文の持つリズムは消えてしまうし、ほぐして述べれば、修辞によって詩が持っていたダイナミズムが消えてしまうのは、ある意味当然なことだからだ。
 しかし、そこでうまく説明できないからといって、「この歌いいよね」「うん、いいね」で終わったら読みとしても批評としても問題外で、できる限り努力して言語化に努めるしかない。何がどういいのかを共通の基盤で語れるところまで持っていく意志が大切なのだ。言葉で書かれたものを別の言葉に直すのだから、その良さを完璧に移し変えることはできないが、最大値に近づけるよう努力することは大切なのではないか。このあたりは、「そのふるえをどれだけ可視化できるか」という内山の問題意識と重なるのではないかと思っているのだが、どうだろうか。
 歌の良さを言語化し、共通の基盤で語ろうと努力することにより、評が独りよがりの鑑賞に陥ることを避けられる。さらに言えば、読んだ者がその説明に納得し、そして歌の良さを味わえるようになれば、それこそ評が評としての役割を果たしたことになるだろう。つまり、歌を一読しても良さが分からなかった者が、評によって歌を自分の中で味わい直し、感動を共有できるという状況である。優れた評が歌の価値を高め、短歌の世界を豊饒にする。私自身もそうした評を目指したいと思っている。

了(第三十一回2009年1月19日分)

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