ポスト・ニューウェーブとは誰のことか(前半)【再録・青磁社週刊時評第二十二回2008.11.10.】

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)

ポスト・ニューウェーブとは誰のことか(前半)  川本千栄

 この週刊時評を何度か書くうちに「ポスト・ニューウェーブ」という言葉に繰り返し引っかかりを覚えた。一体この語を使う評者は、「ある方法論に拠る歌人たち」という位置付けで使っているのか、それとも「ある世代の歌人たち」という位置付けで使っているのか、さらに、果たしてこの語は批評用語として有効なのか、ということが大きな疑問として頭をもたげてきたのだ。
 この語を積極的に使っている一人は間違いなく加藤治郎であろう。「短歌ヴァーサス」(11号07年秋)の「ポスト・ニューウェーブ世代、十五人」と題した評論において、加藤は三つの項目に分けて十五人の歌人を「ポスト・ニューウェーブ世代の歌人」と位置づけている。加藤の定義を引用する。

 ポスト・ニューウェーブ世代とは、一九九四年以降に登場した(歌集刊行を基準として)歌人と考えておく。また、一九九六年以降であれば、インターネット世代ということができよう。… ポスト・ニューウェーブ世代とは、口語性、大衆性、ニューウェーブの技法を継承しながらも、やり尽された後で短歌という詩型の可能性をその外部に求めざるを得なかった歌人たちということができよう。
 
 加藤による三つの項目とそれに沿った歌人名を挙げると、まずポピュラリティー(大衆性)を獲得した歌人たちとして東直子・枡野浩一・加藤千恵・佐藤真由美・笹公人。次にインターネットという場から登場した歌人として玲はる名・盛田志保子・今橋愛・斉藤斎藤・松木秀。最後にアンチ・ニューウェーブの歌人として吉川宏志・永田紅・島田幸典・魚村晋太郎・矢部雅之。アンチ(と加藤が考える)の存在としての歌人まで含めてしまうことからも、方法論によって定義された語だとは言えない。つまりこの語は、加藤自身が「ポスト・ニューウェーブ世代」と言っているように、世代区分のための語だということになる。
 同じ「短歌ヴァーサス」(11号)で香川ヒサも「ポスト・ニューウェーブの歌を読む」という評論を書いており、そこに挙げられている歌人は、「短歌を通して何らかの型を求めていると思われる歌」という括りで吉川宏志・大松達知・島田幸典・松村正直・棚木恒寿、「短歌の形式そのものに型を求めている歌」という括りで枡野浩一・笹公人・斉藤斎藤・松木秀・笹井宏之、「女性の短歌」という括りで東直子・佐藤りえ・盛田志保子・ひぐらしひなつ・伊津野重美・兵庫ユカである。さらに同誌で斉藤斎藤の「生きるは人生と違う」では、「ポスト・ニューウェーブのわかものうた」として今橋愛・中田有里・宇都宮敦・永井祐を挙げている。同じ誌上でありながら、三人の評者の挙げる作者群にブレがあることがわかる。
 ちなみにこの「短歌ヴァーサス」(11号)の特集タイトルは「わかものうたの行方」であり、その副題は「ポストニューウェーブの現在」というものだ。「ポスト・ニューウェーブ」イコール「わかものうた」という捉え方である。そこに作品が掲載されている歌人は飯田有子・村上きわみ・斉藤斎藤・笹公人・黒瀬珂瀾・錦見映理子・今橋愛・石川美南・玲はる名・兵庫ユカ・ひぐらしひなつ・佐藤りえ・岡崎裕美子・吉野亜矢・五島諭・永井祐・雪舟えま・増田静・しんくわ・高井志野・我妻俊樹・島なおみ・天道なおの二十三人である。先ほど見た限りでは方法論としては括れず、世代区分の用語としてしか機能しないはずなのだが、ここには「アンチ」などという括りで挙げられていた島田幸典矢部雅之の名前は見られない。また挙げられた二十三人の世代も、一九六一年生れの村上きわみから八一年生れの五島諭永井祐まで(生年が公表されているものだけで)二十年もの開きがあり、区分がかなり曖昧だという印象である。一九九四年以降に歌集を出した歌人だ、という反論もあるかも知れないが、それならなぜ「わかものうた」と規定するのか。少なくとも世間的には「わかもの」ではない年齢の者も多数含まれている。

(続く)

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