〔公開記事〕『歌壇』22年12月号「年間時評歌集が本屋で売られるということ」(後半)
「歌集が本屋で売られるということ」(後半)
さて、この一年間で記憶に残った歌集を、刊行順に挙げる。
上手く行かないことをわずかに望みつつ後任に告ぐ引継ぎ事項
死んでいくからテレビはつけていてほしい真っ白な父を正面に向ける
竹中優子『輪をつくる』(角川書店、二一年十月刊)。人の心の微妙な機微を鋭く突く歌が印象的だ。決して自己愛に溺れず、自己を客観的に見る目が光る。自分の醜い感情も容赦無く描き切る。また家族への複雑な感情もためらいなく表現する。その潔い姿勢に深く共感する。
あんなにも近づきたりしきみでさへはなれてしまふ今朝とくに水が欲し
黙々とご飯三杯を食べをへつごはんで胸をいつぱいにする
山下翔『meal』( 現代短歌社、二一年十二月刊)。meal=食事というタイトル通り、豪快に食事を楽しむ歌が目立つ。しかしその裏にあるのは、食事をすることでしか満たせない飢えのような感情である。家族への愛情を、食べることで代替するような歌に痛みがこもる。若い世代の作者の文語体旧仮名遣いに注目する。
人びとの生きたい気持ちを照らすためスーパー玉出は夜にかがやく
懸命に生きてる 丁寧じゃないけど払っているよ国民年金
上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房、二二年二月刊)。若い世代の生き辛さを赤裸々に描き切った一冊。詩語というよりは生々しい生活の言葉、例えばスーパー玉出、国民年金などを使って、現実の生を描き出す。きれいごとを一切廃した歌群にぎりぎりと胃を掴まれるような迫力を感じた。
よく冷えた唾液を舌で泡だててわたしはがまんできるいきもの
眼裏にきみの裸体を彫る 風が日暮れの木々をぞわぞわ撫でて
田村穂隆『湖とファルセット』(現代短歌社、二二年三月刊)。身体感覚の表現に強い個性を持つ作者。身体と心が相容れない苦しみを描き出す。自己の性と生を肯定し切れないままに生きる日々を繊細に描く。語彙の新鮮さと共に、句割れ句跨りを駆使した韻律も魅力だ。
歴史上もつとも平和な日本を生きしわたしの頭上に腐る木蓮
引つ越しで行方不明の線量計そのやうに不安は見ないで生きる
米川千嘉子『雪岱が描いた夜』(本阿弥書店、二二年三月刊)。安定した技量で、現代社会に生きる不安を描き出す。社会詠、機会詠と言うより日常に引き付けて、生活の中に潜む問題を熟練の連作で描く。一首目のように韻律に対する新しい試みとも取れる歌もあり刺激的だ。
閉ぢられてある鏡にて白鳥は漆黒の夜をわたりの途中
せいしんの隔離室にておもひにきまつしろさには際限がない
渡辺松男『牧野植物園』(書肆侃侃房、二二年六月刊)。二〇一六年のみの作、四〇〇首を収めた歌集。ほとんどが雑誌などに未発表という驚きの多作さだ。現実と幻想、正気と狂気のあわいを描き、他の追随を許さない世界観を描出する。
舐められてやがて言葉となりてゆく速度思えり点字亜鉛版に
おかえりといってらっしゃい言えぬ場所へ子ら二人とも行ってしまえり
前田康子『おかえり、いってらっしゃい』(現代短歌社、二二年八月刊)。一首目の詞書は「舌読に使われた点字版を初めて見た」。長島愛生園を訪れた連作の一首。この歌集で前田は水俣や辺野古など多くの社会詠を詠っている。そしてやはり母の歌がいい。二首目は河野裕子にも通じる、育って去って行った子への愛を詠う歌だ。
これらの歌集のうち、ハードカバーは竹中、渡辺の歌集の二冊で、後は全てソフトカバーである。大きさは全て四六判。A5判の歌集は無い。明らかに小型化、ソフトカバー化が進んでいる。
評論集では松村由利子『ジャーナリスト与謝野晶子』(短歌研究社、二二年九月刊)が歌人論として出色だ。恋の歌のイメージが強い与謝野晶子の、ジャーナリストとしての優れた資質を描いた力作だ。多くの資料を駆使し、冷静な筆致で晶子の知られざる一面を掘り起こす。
また、江田浩司『前衛短歌論新攷』(現代短歌社、二二年七月刊)と川本千栄『キマイラ文語』(現代短歌社、二二年九月刊)を挙げておきたい。前者は前衛短歌の歌人として岡井隆、山中智恵子、浜田到、塚本邦雄、玉城徹を挙げている。玉城を前衛と捉えることによって、従来の前衛短歌の範疇の再考を促す。後者は短歌の文語口語の線引きの無意味さを論じ、ニューウェーブの功績の見直しを提案する。
短歌史を見直す視点を持つこれらの評論集をきっかけとした議論の活発化が待たれる。
(了)